池上 池辺寺篇

功徳池辺寺独鈷山龍池院の謎

池辺寺が天台宗系の寺院であったのは間違いない話である。
肥後国誌にも台宗叡山正覚院末寺とあり天台宗の寺院ということになる。
そして創建は元明天皇の和銅3年と記載されている。

和銅3年といえば道君首名公が肥後国司として派遣される最低でも3年前ということになるが
当時印刷技術もない時代に続日本記などを調べることもままならないであろうから
数年の誤差などしかたないことであろう。
熊本の東神社(天社宮)の由緒書きには道君首名公を祭祀するこの神社の創建が
和銅3年と記載されていて、これは道君首名公没後の創建であろうから
本来なら718年以降であるはずだ。
この時代に正確な年代を期待するほうが無理である。
この8世紀初頭の時代について熊本には一切の文章等が残されていない。

まあ言わんとするところは、道君首名公が味生池を造ったのちに
この地域の氣の流れを感応した僧侶のどなたかが金峰山と味生池との間に
何らかの目的で平安時代に寺院を設立したものということであろう。

池辺寺に関しての江戸時代の縁起によると
この味生池に悪龍が住み人々に害を与えるので 大和の真澄という僧侶が
この地に伽藍を建てて法華経千部会を開き祈願を行ったところ
悪龍は独鈷山頂上から天に昇ったと云われている。

悪龍が本当にいたとはさすがに考えにくいが
この地域の氣の渦巻く具合を悪龍に仮定したと筆者は考えている。

前回の「熊本霊ラインと弘法大師空海篇」では空海の足跡を霊的感応による推定以外には
見つけることが出来なかったが、池辺寺の江戸時代の正式名称であるところの
「功徳池辺寺独鈷山龍池院」という名称の中にある「独鈷山」というのが謎である。
そもそもこの独鈷山という名称であるがその昔(いつかは不明であるが)には
六甲山といわれていたという情報もある。
誰かが六甲山から独鈷山を連想したのではないかという話だ。

独鈷山伝承は真言密教由来であるのに実際の池辺寺は天台宗である。
真言密教が先か天台修験道が先立ったのか?今後さらなる調査が必要である。
そして最大の謎が池上の平地区の池辺寺跡から見える風景は
花岡山だけということにある。独鈷山や万日山は隠れていて見えないのだ。
偶然に見える見えないの問題ではなく明確な意思をそこに感じる。

そしてこの池辺寺跡の地の西に200m程尾根向こうにある
閉鎖された盆地の存在も非常に気になる。
現在はみかん畑であるがその昔はまさに隠れ里といえる場所である。平という地名も気になる。

結局のところ初期の独鈷山にまつわる池辺寺と
現在発掘している池辺寺は似て別なる物ということであろう。

そして独鈷山との関連から離れ花岡山を望む地にあり金峰山より降りてくる氣を受け止める寺社が
果たす役割とはやはり霊ラインのコントロールということにあろう。

ということは霊ラインの活用に道君首名公→弘法大師空海→天台宗系僧侶→加藤清正公
という流れがある可能性も否定できない。
今後この件についてはさらに調査していきたい。



池辺寺跡ととなりの
みかん畑の位置図


池辺寺跡から望む
花岡山との仏舎利塔

池辺寺跡 調査地

説明書き

説明書き拡大図

尾根隣のみかん畑の膨大なる石垣

石垣拡大図

いろいろと調べても道君首名公と池辺寺関連の情報が得られないままであるが
「日本各地の昔ばなし集の中」に非常に興味深い記事を見つけた。
これと同様な中身が図書館で見つからないかと調査中であるが
残念ながら原典はまだ見つかっていない。
http://www2.ocn.ne.jp/~i-talk/minwaS.htm 第四話 (参考までに添付します)

第四話  : 味生の池(あじうのいけ)(熊本市) 平成13年1月20日

今からおよそ千二百年ほど前、熊本市池上(くまもとしいけのうえ)は広い広い池だったそうな。
この池には、一匹の恐ろしい大蛇(だいじゃ)が住んでおってな。
ときどき里へ姿をあらわしては、田畑を荒したり家畜をさらったりするもんで、
村の者はみんな、びくびくしながら暮らしておったんだと。
そんなある日、とうとうたまりかねた村人たちは、肥後(ひご)の国司(こくし)、
道君首名(みちのきみのおびとな)に助けをもとめた。
首名(おびとな)は村人たちの困りようをよく知っておったでな、
さっそく妙観山(みょうけんざん)の観音堂にこもって、毎日毎日そりゃあ熱心に祈りつずけたそうな。
したらある夜のことじゃ。
一人の老人が夢枕に立っていうた。
「味生(あじう)の池のほとりでお経をよむのじゃ。そして寺を建てるがよい」首名はさっそく京へ上ると、
天子(てんし)にこのことを告げた。
天子はすぐさま僧真澄(しんちょう)をつかわしなさってな、大蛇を退治させることにしたんだと。
さて京を旅立ち、何日もかかって肥後の国に入った真澄は、やっとのことで妙観山にたどりついた。
するとそのときじゃ、夢の中のあの老人があらわれたではないか、
そして、「われは白山権現(はくさんごんげん)じゃ、早く寺を建て大蛇を退治するがよい、
われは守り神としてこのあたり一帯を守ってやろう」と静かにこう言うと、
すうっと消えてしもうたんじゃと。
こうして権現に力ずけられた真澄は、池のまわりに千人の僧を集め、百日間のお祈りを始めた。
すると百日目の昼過ぎのこと。
急に空が暗くなったかと思うと、激しい雨とともに竜巻が起こった。
池は狂ったように大きく波うってな、とその時じゃ、突然池の中から、目をらんらんと輝かせた大蛇があらわれた。
僧たちの読経(どきょう)の声は、ひときわ高く鳴りひびく。 
その中を、大蛇は真赤な火をふきながら、尾をふり乱して、竜巻と共にに天へと昇って行くのじゃった。
それ以来、村には平和な日々が戻ったそうな。
そして和銅(わどう)三年、真澄は近くの山一帯に百二十の寺を建て、
妙観山功徳池辺寺(みょうけんざんくどくちへんじ)を開いたと云われておる。

※ 和銅三年というのは西暦711年で道君首名公が筑後(肥後)国司に任じられるのは
和銅六年なので実際の年代はこれ以降の話と思われる。
先に記載したようにこの和銅三年というのは肥後国誌を参照している。

妙観山というのは弘法大師伝承により独鈷山という山名がつく以前の名前と思われる。
熊本市のホームページでも池辺寺仏像の説明にやはり妙観山の記載がある。
それには「池辺寺仏像の金子観音は金安治というものの娘が妙観山の観音に詣でたとき、
平村で拾得したものと伝える。」と書かれている。

この昔話は白山信仰が全国に広まった後の話なのだろうか?
それにしても真言系でも天台系でもなく白山権現が顕現したという話が本当に伝承されてきたのか
非常に気になるが、調査ではまだ確認できていない。

道君首名公と白山信仰を結びつける話は、唯一この昔話しか見つかっていない。
味噌天神のある地域に白山という地名が残っていて、その由来はそばの白山神社ということであるが
この白山神社は残念ながら由緒不明である。

味噌天神 地図
http://www.its-mo.com/z.htm?m=E130.43.33.721N32.47.30.793&l=10

白山神社 地図
http://www.its-mo.com/z.htm?m=E130.43.37.418N32.46.57.225&l=10


       


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