不比等 考

工事中



蘇我 物部 中臣の三有力豪族の中で
勝者となったのは結局中臣氏であった。

物部氏と中臣氏は共に神祇を祭祀する役職にあり
祝詞奏上等神事では、協力する関係にあった。


物部の祖は天照国照彦火明櫛玉饒速日命
(あまてらすくにてらすひこほあかりくしだまにぎはやひのみこと)
天と地とをあまねく照らす強力な霊力を備えた
太陽神である農作物豊穣の神
ということになる。
邇邇芸命(瓊瓊杵尊)よりも早く天孫降臨した神である。

中臣の祖は天児屋根神といわれている。
天児屋根神は岩戸開きにも出てくるが
邇邇芸命の降臨に随伴した神である。

蘇我氏の祖は武内宿禰である。
しかしながら蘇我氏は百済系渡来人であると考えられている。

ちなみに秦氏は新羅系渡来人である。


蘇我 物部戦争でまず物部が脱落し
乙巳(いっし)の変で蘇我が脱落した。
中臣鎌足(ふじわらのかまたり)と蘇我入鹿(そがのいるか)の戦いには
中臣に軍配が上がった訳であるが
鎌足にしてみれば物部の敵を討った気ではなかったろうか?


いわゆる神道がいつ完成したかというと
これを完成というか改竄というかは紙一重ではあるが
中臣=藤原不比等の力によるところが大きい。

もちろんある意味藤原家に都合良くなっているのは間違いないが
それでも天皇家そのものが仏法に傾向するなか神道を系統立て
存続させてきたことはすばらしい功績であるといえよう。






今回(2004/09/)筆者は四国に取材活動したが
第86番の志度寺は開基が藤原不比等となっていて
不比等伝説が伝えられていたので覚書を残して置く。


四国第86番 志度寺  玉取りの海女の話 

天智天皇のころ、唐の高宗皇帝の妃(きさき)に迎えられた藤原鎌足の息女が、
亡父鎌足の供養に奈良興福寺を建立すると聞いて、
その菩提のために、釈迦三尊が刻まれている三個の玉を唐から送らせる。
ところが、志度の浦で竜神にその玉を奪われてしまった。
兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦浦へ渡ることとなる。
そこで土地の海女と夫婦になって一子をもうけ、その名を房前(ふささき)と名付けた。
あるとき不比等は海女に自分の素姓をあかし、竜神の玉の話をすると、
海女はわが子房前を世継ぎにしてくれるなら
私が命にかえてもその玉をとり戻してくるという。
不比等が承知をすると、海女は小刀を口にくわえて海底にもぐり、
玉を取り返してくるが、竜神に追われたため、
乳の下を剣でえぐり、その中に玉をかくして合図の縄を引いた。
血にそまった海女は海上に引きあげられ、
その乳の下から玉は出てきたが、海女は絶命する。
不比等は海辺に墓を建て堂宇を建立して”死度道場”と名づけ、海女の霊をとむらう。
不比等は房前と共に都に戻り、海女との約束どおり房前を世継ぎにする。
房前は後に藤原北家の祖となるが、
持統天皇の八年、行基菩薩をともなって海女の墓にまいり母の追善に堂宇を増築し、
寺の名を志度寺と改めたという。
志度寺の仁王門を入ると左にその海女の墓があった。
苔(こけ)むした石塔である。
                         以上  

この話を元に能 「海士」 が作られている。
江戸時代の鍔でこの話を題材にしたものを見つけたので
その鍔の写真を参考までに添付しておく。





道君首名覚書でも報告したが
道成寺の創建にまつわる伝説 「宮子姫髪長譚」では
不比等の娘である宮子姫が実は紀伊半島の御坊市の海女の子供で
その娘の黒髪がきれいだったので不比等が養娘にしたという話を伝えたが
今回の志度寺も海女がからんでいる。
藤原不比等と海女にはなんらかの繋がりがあると感じる。
それは藤原家の出自にも関係するような気がする。















        

       

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