第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      高句麗使来着の意義

 広開土王碑などからみて、わが国と戦火を交えたこともある高句麗が、
五七〇年という時点で何故に使者を派遣し、国交を求めてきたのか。
それは当時の中国をめぐる東アジアの情勢と無関係ではないであろう。
 四世紀の前葉に、晋朝が南に遷って東晋と称するとともに、
華北には多くの異民族が侵入して、いわゆる五胡十六国の乱世となった。
しかし四四〇年、北魏の太武帝は華北を統一して、
江南の宋朝(劉宋)と対立する南北朝時代にはいった。
そののち南朝は宋から斉、梁、陳と交替したが、その力は弱く、
北朝に圧迫されていた。一方、北朝は五三四年に西魏と東魏に分裂し、
ついで北斉と北周に移行したが、北斉の力は弱く、北周に滅ぼされようとしていた。
すなわち中国は一世紀半にもおよぶ分裂抗争の期間がようやく終結し、
統一への気運がみなぎりつつあった。
 中国が分裂している間は、周辺諸国、ことに朝鮮半島の三国は安泰であったが、
ひとたび統一国家が出現すれば、その圧力を直接に受けなければならない。
朝鮮半島南部の新羅と百済は、当時の真興王・威徳王のもとで着実に国力を進展させつつあった。
高句麗はその間にあって、南と西から迫りくる脅威を感じ、
孤立感を深めていたのである。
こうした事情が、高句麗をして日本への遣使と国交開始に踏み切らせたのであった。
 高句麗使たちは、越の海岸のどこに着いたのであろうか。『紀』は明記していないが、
難船漂着したのであるから、特定の港を目指したわけではあるまい。
しかしやはり港か、それに近い地形がなければ船をつけにくいであろう。
北加賀の大野湊の可能性もあろうが、道君の本拠地が近いなどの点から考え、
比楽湊が有力ではないかと推測される。
比楽湊は手取川の河口を利用した港で、『延喜式』主税上にその名がみえる。
 なお、のちの渤海使も五回まで加賀に来着しており、
これは到着の国名のわかる事例のうちではかなり多い方である。


第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      高句麗使の漂着

 第三節にみた若越地方の諸生産および人びとのくらしの進歩と変化のなかで、
この地方の政治状況も、内外から迫る動きに触発されて大きく変わってきた。
とくに、ヤマト朝廷の新たな支配様式が及んできた。
 『日本書紀』(以下『紀』)欽明天皇三十一年(五七〇)四月乙酉条に、
「越の人江渟臣裙代、京に詣りて奏して曰わく、『高麗の使人、風浪に辛苦し、迷いて浦津を失えり。
水の任に漂流いて、忽に岸に到着す。郡司、隠匿せり。故、臣顕し奏す』と。
詔して曰わく、『朕、帝業を承りて若干年なり。高麗、路に迷いて始めて越の岸に到る。
漂溺に苦しむと雖も、尚性命を全うす。豈徽猷広く被らしめ、至徳巍巍に、仁化傍く通わせ、
洪恩蕩蕩たるに非ざらんや。
有司、山城国相楽郡に館を起て、浄め治いて厚く相資養せよ』と」(写真33)とあり、
さらに同年五月条には、「膳臣傾子を越に遣して、高麗の使に饗たまう。
大使、審かに膳臣は是皇華の使なるを知る。
乃ち道君に謂いて曰く、『汝、天皇に非ざること、果たして我が疑えるが如し。
汝、既に伏して膳臣を拝めり。倍復百姓なることを知るに足る

而るに、前に余を詐りて調を取りて己に入れたり。宜しく速やかに之を還すべし。煩しく語を飾るなかれ』と。
膳臣、聞きて人をして其の調を探索し、具に為与う。京に還りて復命す」(編五四)とみえる。


写真33 『日本書紀』
写真33 『日本書紀』

 これは、高句麗との国交に関する最初の確かな記事とみられる。
しかしながら一方には、この記事が膳氏の家記から採られたものであり、
朝鮮側の史料によらない欽明紀の記述の多くが一般的に後世の創作であるから、
この記載にもあまり信頼を寄せるべきではないとの所論がある。
もちろん、国内伝承にもとづいたこの記事に過度の信頼はおけないが、
初めての高句麗使節の来着という大きな国家的行事であってみれば、
これをまったくの創作とみることもできないであろう。
またここに伝えられた道君と江渟(沼)臣の確執にしても、
その時点まではほぼ第三者的立場に立っていた膳臣の所伝であろうから、
かえって客観性があるとも考えられる。

 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      膳臣傾子の活躍

 若狭国造と考えられる膳氏は、元来大王家の食膳を司る側近であったが、
雄略朝のころから軍事・外交面でも活躍するようになった。
すなわち膳臣斑鳩は、吉備臣小梨・難波吉士赤目子らとともに、
新羅を助けて高句麗と戦い、大いにこれを破ったという。
また欽明朝の初年、膳臣巴提便は使命を帯びて百済に渡り、愛子を食った虎を退治して勇名を挙げた。
 江渟臣裙代の密告によって高句麗使の来着と道君の越権を知ったヤマト朝廷が、
膳臣傾子を越に派遣したのは、こうした先祖の実績をふまえての判断であったに違いない。
膳臣傾子は現地に赴いて道君を責めたが、高句麗使らは道君が倭国の大王でないことを悟り、
道君に調物を瞞着された事情を傾子に語った。

これによって傾子は、捜索して調物を高句麗使に返還させ、傾子は大和に戻って事情を説明したという。


 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    一 高句麗使の来着
      道君と江沼臣
 道君は最初高句麗使に向かって、みずから天皇であると言ったらしい。
もちろんこの時代に天皇という用語はなく、大王といったはずであるが、
高句麗使は疑いながらも、調物などを渡してしまったらしい。
道君には、その言葉を裏づけるだけの勢威があったのであろう。
この道君の勢力範囲はどのあたりに考えるべきであろうか。
 弘仁十四年(八二三)に加賀国が越前国より分立したときは、
加賀・江沼の二郡にすぎなかった
(そののち、加賀郡より石川郡、江沼郡より能美郡が分かれ、四郡となる)。
江沼郡は江沼臣、加賀郡は道君の勢力範囲とみてよいであろう。
加賀郡と江沼郡の境は手取川(比楽川)と考えられる。
図43 加賀地方南部の概要図

図43 加賀地方南部の概要図

 道君の名称は、加賀郡味知郷と関係あるとみる意見が強い。
味知郷は鶴来町を含む手取川東岸地帯に比定されるから、
道君の本拠は加賀郡のうちでは比較的南に位置し、江沼郡と接していたようである。
道君と江沼臣との不和は、こうした地理的位置にも由来しているかもしれない。
ただし、南の江沼平野に位置する江沼古墳群の被葬者層が江沼臣と結びつけて理解されている。
(浅香年木『古代地域史の研究』)。
 道君と江沼臣の不仲の主因は、白山信仰の主導権争いにあるという説がある。
(藤間生大「いわゆる継体欽明朝内乱の政治的基盤」『論集 日本歴史』一)
はたしてこの時代から白山信仰が生まれていたかどうか、
また争うほど利権に関係したものであったか、疑問であるが、
ともかく隣接する豪族どうしの間には、いろいろな利害の対立する原因はあったであろう。
 ところで「国造本紀」によれば、
江沼国造は「柴垣朝御世、蘇我臣同祖、武内宿禰四世孫志波勝足尼定賜国造」となっており、
加賀については加我国造と加宜国造の二項があり、
加我国造は「泊瀬朝倉朝御代、三尾君祖石撞別命四世孫大兄彦君定賜国造」、
加宜国造は「難波高津朝御世、能登国造同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっている。
ここで能登国造同祖となっているが、
能登国造は「志賀高穴穂朝御世、活目帝皇子大入来命孫彦狭嶋命定賜国造」とあり、
大入来命は、『記』に能登臣祖として出てくる大入杵命と同一人物と思われる。
明らかに加宜国造の祖とは違っている。
加宜国造と同祖なのは、高志深江国造で、
「瑞籬朝御世、道君同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっていて、
明らかに同一人物を祖先としており、
かつこれによって加宜国造が道君であることもうかがわれる。
ただし素都乃奈美留命については不明であり、
加宜国造は仁徳(難波高津)朝、高志深江国造は崇神(瑞籬)朝の成立となっていて、
この伝承の不確実性を示している。
 しかし道君は、後述のように、武内宿禰系との伝承をもっており、
これによって三国国造・伊弥頭国造・利波臣・江沼臣などと同祖関係を結んでいるわけである。
のちに推定するように、道君は六世紀の後半ごろ、蘇我氏と接触をもち
、同祖系譜を手に入れたのではなかろうか。
ただし『新撰姓氏録』は道公(君)を大彦命の後裔と伝えているから、
そうした伝承をもった時期もあったのであろう。
 なお加我国造については、三尾氏系と伝えるのであるが、
加宜・加我両国造が別の地域に併存したのか、
それとも一つの加賀国造がある時点で交替したのかは明らかでない。
後者とすれば、道君は平安時代まで続く名族であるから、
三尾氏系の方が早く衰退し、道君にとって代わられたことになるだろう。


第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    二 四つの国造
      三国国造

三国国造について「国造本紀」は
「志賀高穴穂朝御世、宗我臣祖彦太忍信命四世孫若長足尼定賜国造」と記す。
これにもいくつかの問題点がある。
 第一に角鹿国造と同様、志賀高穴穂朝(成務朝)の任命としている点である。
三国国造としては、後述するように三国氏が最も有力視される。
「国造本紀」に同祖としてみえる宗我(蘇我)氏は、
『記』『紀』によれば武内宿禰の子孫となっている。
武内宿禰は、『紀』によれば孝元天皇の皇子彦太忍信命の孫、
『記』によれば同じく孝元天皇の子比古布都押信命の子とされている。
「国造本紀」の若長足尼は、『記』『紀』にみえないが、
「越中石黒系図」によれば、武内宿禰の末子若子宿禰の子となっている(図45)。


図45 利波臣氏系図
図45 

この系図で注目すべき点は、
三国国造・伊弥頭国造(射水臣祖)・利波臣・江沼臣・坂名井臣など北陸の豪族が、
同系として結びつけられていることであり、
あたかも北陸の諸豪族が同族連合を形成しているかのようである。
「越中石黒系図」は、かなり信頼すべき古記とされてはいるが
(米沢前掲書、佐伯有清『古代氏族の系譜』)、
もとよりその記載がすべて真実であるとは限らない。
なぜなら『記』は、前述のように利波臣を孝霊天皇の皇子日子刺肩別命の子孫と伝えており、
孝元系とするこの伝承と相違している。
また「石黒系図」に、奈良時代の著名な利波臣志留志がみられないことなどから、
利波臣に二系があったと考えることも可能であろうが、
やはり『記』系譜との先後関係や、相違の理由について追求していくのが
本筋であろう。
 第二に、
「若長宿禰、道公祖、志賀高穴穂朝定賜三国国造」
記載されている点が問題である。
志賀高穴穂朝 (成務朝)はあまりに時代がさかのぼることになるが、
この点をしばらくおくとしても、北加賀の豪族である道公が三国国造となったことが
はたしてありえたのであろうか。
天平三年の越前国加賀郡大領として道君の名がみえ(公二)、
これから推して
道君は加賀の国造であった可能性が大きい。
『紀』欽明天皇三十一年(五七〇)四月乙酉条、高句麗使来着記事に、
道君は「郡司」として登場する(編五三)。
この郡司はもとより後世の書き換えで、本来は国造であったと思われる。
道君は高句麗使を瞞着して調物を掠め取っていたにもかかわらず、
処罰された形跡が認められないのが不審である。
 このころ、道君の勢威が非常に大きかったか、
あるいは中央と深いつながりがあって、
事件の処理にあたった膳臣も手を下せなかったのであろう。

当時中央で権勢を専らにしていたのは蘇我氏である。

道君は蘇我氏に服従し北陸進出の尖兵となるとともに、自己の勢力も伸ばしたのではなかろうか。
道君と蘇我氏との同祖関係が形作られたのも、
道君が三国国造になったとの伝承が発生したのも、
おそらくこの前後であったろう(浅香年木『古代地域史の研究』)。
 しかし三国国造は、やはり三国氏であったと思われる。
天平三年ならびに宝亀十一年(七八〇)の坂井郡大領として
三国真人の名がみえる(公二、寺五八)。
この時代の大勢として大領に任命されるのは、もとの国造の家系に多かった。
また「三国」の氏姓が国名と一致するのも、間接的に国造であった証左といえよう。
三国国造の成立は、おそらくは継体の崩後、六世紀の中ごろではなかろうか。


 
第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    二 四つの国造
      高志国造


 高志国造については、これを越後に考える有力な学説のあることはすでに述べたが、
いろいろな点で不合理なので、やはり越前国内にあったものとして議論を進めたい。
 「国造本紀」には「志賀高穴穂朝御世、阿閇臣祖屋主田心命三世孫市入命定賜国造」とあり、
『紀』孝元天皇七年二月丁卯条は「兄大彦命(孝元皇子)は、
是阿倍臣・膳臣・阿閇(閉)臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣・凡て七族の始祖なり」と記す。
これは北陸と関係深い阿倍臣や越国造がみえる史料として、とくに有名である。
しかし「国造本紀」が記すのは阿閇臣であって、阿倍氏ではない。
『紀』の雄略紀には阿閇臣国見、顕宗紀には阿閇臣事代の名がみえるが、さして有力な氏族ではない。
 『新撰姓氏録』右京皇別に、阿閇臣を「大彦命男彦背立大稲輿命之後也」としているが、
それに続けて、「伊賀臣、大稲輿命男彦屋主田心命之後也」
「道公、大彦命孫彦屋主田心命之後也」とみえ、
彦背立大稲輿命―彦屋主田心命の系統として、阿閇臣・伊賀臣・道公の三氏がみえる。
先に「石黒系図」では武内宿禰系となっていた道公が、ここでは大彦命系として登場している。
 このようにかなり錯綜した系譜になっているが、これらの伝承の背後にいくらかでも史実を読みとろうとすれば、
大彦命後裔とはいえ、阿閇氏を始祖としている伝承は、安易に無視しない方がよいように思われる。
 さて高志国造を越前国内に考えるとすれば、ほかに国造の配置をみない丹生郡を考えるのが有力であろう。
丹生郡は、王山・長泉寺山古墳群(鯖江市)の存在によって、越前で最も早く開けた地域の一つと考えられるが、
そののちとくに巨大な古墳の築造をみず、また数代にわたって継続した大古墳群も認められない。
したがってこの地においては、在地豪族の発展よりも畿内豪族の移住が考えられる。
なお和銅元年(七〇八)に初めての越前国守としてみえる高志連村君(編九九)を高志国造の後裔とする考え方もあるが、
時間的隔たりが大きいので、明確な判断は困難である。
したがって、丹生郡に国造を求めるとすれば、天平五年に丹生郡大領として名のみえる佐味氏(公三)の可能性が強い。
佐味氏は、上毛野氏と同祖で崇神天皇皇子豊城入彦命の後裔と伝えるから、
孝元天皇系の阿閇氏とはまったく系統を異にするわけである。
 一方、先の孝元紀にみえる「越国造」を、高志国造と同一視し大国造(広域国造)として扱う論考もある。
これを斉明紀にみえる「越国守」「越国司」の前段階のものとして、越全体の広域国造とみなす説にも一理はある。
しかし、かりに斉明紀が七世紀後半の実状を示すものとしても、
それをさかのぼる時代に越全体がヤマト朝廷の支配下に広域政治圏を形成していたなどとは考えられない。
おそらく六世紀段階では、ヤマト朝廷の権威は越中あたりまでしか及ばず、
しかも各地の豪族を通じての間接的支配にすぎなかったであろう。
このような情勢のもとで越国造が存在したとすれば、やはり越前の一部にとどまり、
三国国造や角鹿国造と比肩するものでしかなかったろう。
 さらに、『紀』は「越」、『記』は「高志」というように統一された表記になっている。
それゆえ「国造本紀」の高志国造と『紀』の越国造は、対応した同一の呼称であるとも考えられる。
したがって、「国造本紀」の阿閇氏同祖説も、成り立つ可能性もあるのではなかろうか。
その時期は、崇峻紀にいう「阿倍臣を北陸道の使に遣わして、越等の諸国の境を観しむ」
(編五八)とある崇峻天皇二年(五八九)以前であろう。
 要するに、若越地域の各国造の成立は、最も早い若狭国造は五世紀後半ごろからであり、
これに次ぐ角鹿・高志・三国国造は六世紀になってからのことと考えられる。もとより、
いったん成立してのちも一つの氏族が一貫して国造であった場合だけとは考えられず、
前述の錯綜した系譜関係をみても、おそらく複数の氏族が時期を異にして国造にあたる場合もあったであろう。












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