道君首名の久留米での足跡


初代 筑後国司の役割


先週(20041017)広報久留米の道君首名の塚の記事を頼りにここに行ってきました。

http://www.kttnet.co.jp/shisei/03_5_1/country/cou01.htm

確かに塚はあったけど道君首名を確認できる目印等は全く無く
1300年間もの間語り継がれた道君首名公の歴史が埋没しようとしています。
神社の由緒書きにもなんら記載無し。残念でした。
上記ホームページ以外ここが道君首名の塚である確証になるものが存在しません。
個人的には道君首名が卒したのは肥後であると感じています。
次に久留米城址に向かいました。
ここの篠山神社境内に道君首名公の石碑がありました。

ところでこの久留米から帰ってきた翌日に少しばかり閃きがありました。
彼は不比等の策略により都落ちしたという考えでいたが
もしかするととんでもない考え違いかもしれないという話です。
都落ち根拠は
@新羅から713/8/10帰都後すぐの713/8/26には筑後守に任命されている。
A718/4/11に卒するまで任を解かれて都に戻ることなかった。
B在任中、筑後守にに加えて後年に肥後守にも任命されているが
 戻らせない意図に感じられる。
C菅原道真の大宰府落ちになぞらえて九州任務が孤立無援で辛いものというイメージがある。

これに対して今日感じたのが不比等らの官吏が律令を制定し
中央集権として国家をまとめるにあたり
天皇に強大な権力と歴史背景を持たせる必要があったということ。
そのために古事記 日本書紀を編纂して
歴史を歪曲して神々まで編纂して「万世一系の天皇の系図」を作成したが
反乱要素の大きい九州での統治活動も必要で
それを不比等が道君首名に任せたのではないかという閃き。
強力な統一国家を作り上げるには朝鮮半島に近い九州にリーダーを置き
反乱を防ぎまとめ上げる必要が最重要であった可能性が否定できません。
そして現実、道君首名公は強烈なリーダーシップにより九州に律令を根付かせることに成功しています。
九州にはまだ秘められた謎があるようです。



今後 この点を調査していきたいと考えています










     久留米市 大善寺町夜明の
       印鑰神社 今は改名して夜明神社




          旧 印鑰神社(いんにゃく神社)鳥居



      最近立て替えられた夜明神社 拝殿





    神社内に建てられようとしている公民館


       境内にある道君首名公の墓といわれている乙名
        首名塚(おびとな塚)が乙名塚となったものと思われる










    久留米城址の篠山神社境内にある
      道君首名公 石碑
     
明治二十五年十一月の建立

 


2009/02/15に久しぶりに大善寺夜明の印鑰神社に参拝してきました。
首名塚(乙名塚)に由緒書きが作られていました。
この由緒書きが次の世代に残されていくように願っています。


        大善寺夜明 印鑰神社内の首名塚由緒

祭神は大國主命 宇多大采名命 武内宿禰(竹内宿禰)となっている。
宇多大采名命を宇多天皇とすると、これは菅原道真との縁で祭られていることになろう。
とすると菅原公は時代が下がるので、
もともとの祭祀は、道君公由来の少彦名神・大國主命祭祀か、
高良玉垂命由来の武内宿禰公が祀られていたと推察される。
この地域には高良玉垂宮が多いがこの系統の神社は、
道君首名公が筑後国司として来る以前の建立であろう。
地域の高良玉垂宮に道君首名公の塚が作られたことは考えづらい。
たぶん初代国司の道君首名公ゆえに印鑰神社という社名であろうことを考察すると
印鑰社から少彦名神・大國主命祭祀となり道君首名公没後に道君首名公を祀り
後世になってすぐ近くの玉垂宮から後世に武内宿禰公を勧請したと考えるのが自然なようだ。
この地域には印鑰神社が複数存在するが、
神霊的に見て武内宿禰公を祭祀していると思われるものも存在している。




印鑰神社といえば、熊本八代に鮒取神事で有名な印鑰神社がある。
祭神は蘇我石川宿禰で、由緒によると凶徒平定の為この地に来たという。
鮒取神事は悪天候で海が荒れ魚が取れず、
それで若者が池に飛び込み鮒を手取り御前に供した古事に由来する。

蘇我石川宿禰は武内宿禰の子供といわれている。
この蘇我石川宿禰の石川がどういう由来で付いているのかは知らないが
本州にほとんど存在しない印鑰神社が何故か石川県に存在する。
(住所は石川県七尾市府中町223)これは偶然であろうか?
このことに相関があるとなると
印鑰社と武内宿禰あるいは蘇我石川宿禰に繋がりが出てくることになる。
「印鑰」とは、政府より認可された印鑑(政治権力)と蔵の鍵(財政)の意味であり
武内宿禰公が公に久留米から八代の支配権を得ていたという話に繋がる。
ただ道君首名公も越(石川)に縁があるし道君そのものが蘇我と繋がる伝承を持つ。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-04-01-02.htm
道君首名公の筑後・肥後での初代国司としての活躍を考える時に、
道君の祖である武内宿禰と蘇我石川宿禰を印鑰神社に祭祀した可能性を否定できない。
氏の初代国司の役割としてこの地に残る物部氏の名残りと饒速日尊の歴史を封印し
天皇の一統性を擁護することを請け負っていたとすれば、話の展開が大きく変わる。
時代背景で言えば、和銅3年(710年)3月10日、都が平城京に遷ったとき、
物部連麻呂=石上麻呂は、旧都の留守にさせられている。
道君首名公が初代国司となったのは和銅5年(713年)8月26日であり
物部の歴史が封印されたとすればまさにこの時代の可能性が高い。
このあたりはもう少し検証が必要であろう。

ちなみに印鑰神社は九州各県では熊本・久留米の他に壱岐や志賀島(志賀海神社摂社)
佐賀の大和町大字尼寺、宮崎の西都市三宅2844番地にもある。
本州では、
伊甘神社 島根県浜田市下府町903-2
大御和神社 祭神=印鑰大明神 徳島県徳島市国府町府中644
印鑰神社 石川県七尾市府中町223
伊和神社(印⇒伊 鑰⇒輪⇒和と変化) 長野県松本市惣社539
       




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