結界考察



筆者の自宅は昨年(2005年)中古飲食店を購入後に大幅にリフォームして住んでいる。
風水的には街道反弓(路弓)にあたり凶相になる。
さらにこの弓になった裏鬼門にあたるところに
電柱を立てないといけない破目になった。
これはさらに一箭穿心(いっせんせんしん)という凶相となり災難が降りかかるとの事。
また玄関は東北 土地は変形土地と凶相が重なっている。
購入前に凶相であることは十分把握しており
専門の占い師に相談もしたことがある。
やめたほうがいいという当然のアドバイスを戴いた。
もともとの店が傾いたわけも十分に把握できていた。

にもかかわらず現在そこに住んでいる。
抗うことが出来ない運命の力というものを感じた。
またリフォーム中は長期出張を命じられほとんど立ち会うことが出来なかった。
この家に引っ越して半年で胆石症で胆嚢を取る手術を行い
また虫歯でもない奥歯も抜歯せねばならないはめとなっている。

しかしながらここに住むようになって運命 宿命を見直し
結界についての考察は一歩進んだことも事実である。


神道の基本的観念でありながらまた一番奥が深いのも事実である。
鳥居や忌竹にはじまり、禁足地との境などは一般的に言う結界である。

真言密教などでも結界という概念が使われているが
平易に一言で言えばあの世とこの世の境であり 
この世と神界との境ということに尽きるのかも知れない。
黄泉津平坂で伊弉諾尊と伊弉冉尊が千引の岩(岩戸)を境界にして対峙するが
この岩戸こそが結界である。

人を通せんぼするのは有刺鉄線でも張り巡らせばいい。
しかしながら異界との霊道を塞ぐにはそこに結界を張ることとなる。

地鎮祭で四方に忌竹を樹てて注連縄を張るのは
現界と神を降ろす清浄なる世界を切り離し異次元を作ることにある。
この境界で3次元世界から高位の次元に転換しない限り神は降臨しない。

現界はイメージで言えば身の回り全て不浄なる世界で
例えば人の生命体は3次元的には皮膚で結界を作り
高次的にさらにオーラで結界を作りだしている。
人のレベルにはよるが構造的にはかなり清浄なる世界といえよう。
結界による清浄化によって神霊はより降臨しやすいといえる。

実際のところ人は御魂に神霊を宿しているが
それが可能となるのは結界が作られ清浄度が増しているからである。

従ってこの結界というものは現実世界から見れば単なる竹や注連縄で
あり簡単に出入りできるように思えるが
結界の中に踏み込んだと勝手に思ったからといって
そこが異世界でなければ
本当の意味では結界の中に踏み込んだわけではないということである。
同様に結界の向こう側の世界からみた場合にも
物質的なものはなんら結界とはならない。
物質と表裏にある次元の分け目となる霊的バリアがそこには必要とされる。
この結界の中に神を降臨させるとき
結界の中の次元が高揚していき少しながらも神の域に近づくことになる。
このとき現実界とを隔てるものこそが結界である。

1次元世界と2次元世界を隔てるものは
1次元世界から見ればドットであり2次元世界から見れば面である。
2次元世界と3次元世界を隔てるものは2次元世界からみれば面であり
3次元世界からみれば空間となる。
ところが空間以上をなかなか人は認識出来ない。
結界は3次元世界と高次(異次元)な世界との間とを隔てるものである。

従って結界は3次元しか認識できない我々が作るものではなく
高次の側から作っていただくものなのである。
ただ高次の存在にこちら側からのアプローチは必須である。

奥義において同じ次元の結界というものを想定していないが
単に三次元的な同一次元の結界というなら有刺鉄線でも張り巡らせれば済む話である。

また実際のところ結界は物理法則ではなく生命による意識的な行為である。
だからこそ 風水による結界に想像上の動物である貔貅(ヒキュウ)や
石敢當の文字を書いた石標などでも験を現すのである。


もう少し具体的に説明すると
一般的には結界という言葉は、単に同じ次元での清浄不浄の境目 
持ち主の境界という意味で使われることもある。
掃き清められた土俵は次元を同じくしても神聖であると感じることは日本人ならあたりまえの感覚であるし
家の中に靴を脱いで入るのも人の家の敷居をまたぐ時に他人の世界に入り込む感覚をもつのも
日本人としてあたりまえの感覚である。
ただここで取り上げる結界とは単に三次元的な同一次元の結界を話題にはしていない。

さてマンガの世界は数学的には平面の二次元世界といえる。
しかし三次元界に住む我々はそのマンガを読むとき
その二次元世界を三次元世界として感じることがある。
しかしそこには三次元にみせるマンガ家のテクニックが関与している。
丸や三角を描いただけでは二次元的平面な世界があると感じるだけだ。
同様にして例えば六次元界に住む神霊から我々を見た場合には
三次元的行動をする生命に見えるはずであり
実際のところ次元の違いがお互いを大きく隔てている。
しかしながら我々は空間を三次元的にしか認識できないが
相手に六次元的に見せるテクニックが無いわけではない。
二次元世界のマンガの中で三次元的空間を表現するように
三次元的認識しか出来ない我々にも多次元的に表現するテクニックがある。
そしてそのテクニックを身につけるという事はすなわち結界の認識に繋がる。
作り上げた結界を認識する時にそこに次元の膜を感じる。
例えば原子核を回る電子軌道がK殻L殻M殻・・・とあってそれぞれに原理的に応じる形で
s軌道、p軌道、d軌道、f軌道という電子雲という膜を作り出しているが
エネルギーのやり取りが無い限りは電子は膜からも核からも出ることが無く
この膜間は不可侵の次元つまりは結界となっているようなイメージである。
そして真の結界は境の強調ではなく逆にこの次元の膜を破り
高次にいり込むために作られるものという認識が筆者にはあるが、
感じる限りではこの膜は低次から破るというものではなく高次側から破ってもらうという感じである。
次元を超える境界こそが真の結界であり異次元とのパイプである。






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