動物 植物 鉱物


総論


動物 植物 鉱物に毎日接しその生命を預かり飼い育てると
このそれぞれに深い愛情を感じるようになる。
それらはそれぞれ違う影響を自分に与えてくれる。
この特性に傾聴するときに生命の本質に気づく。
その時自分もまたその対象に合わせ鏡のごとく
飼われていることに気づく。
言葉を代えればお互いに育てあっているような感覚である。
鉱物も植物も動物もそれぞれに生命を全うしている。
ただ時間的スピードや生命としての次元が違うだけである。
鉱物は預かり植物は育て動物は飼うという表現を仮にとってはみたが
実際のところその相互の影響は計り知れなく複雑で深くその表現は難しい。
私のつたない言葉つたない文章力で説明するのは困難ではあるが
生命というものを認識する時にこの感覚を失うと
神霊に対する認識も危うくなってしまう故にあえて伝える努力をしたい。

人は食べるという生命の基本を、生命維持という本能から離れ
意識して知的文化的行為として行うことが出来る。
そして食は文化といわれるまで多彩な発展を遂げたが、
ある人は殺生に対する慈悲から四足は食べないし
ベジタリアンなどといっている者もいる。
それはそれで結構なことではあるが
結局、それだけで生命の尊厳を尊んでいるということには
直接的には結びつかないことを認識してもらいたい。
肉食動物が弱肉強食で動物を殺して食べることを
論理的に考えて修羅の世界と考えることも一理あるが
現実的に自然界では残忍ながらもそれぞれが
生命を補完しあっている特殊なハーモニーがあるという
認識が重要なのかもしれない。
つまりはここではそれは神の創造を作り上げていくための手段としての
食物連鎖ということになる。
この世の全ての動物が草食動物であればうまくいくのか?
そうとはいえないということだ。

身に毒があるとか棘があるとか食べられることを完全否定した動物は多い。
しかしそれ以上に敵に対して無防備に見える動物も多い。
多種多様な動物の生命の目指すものは、
(人類も含めて)さらに高次の存在になることである。
あるいは高次というより直接的に神霊というほうが今は適切かもしれない。
(ここは理科の授業で無いので科学的理屈で否定しないでください。)
現在のところその動物界で一番ゴールに近いのは人間であるが
無敵の百獣の王でもないどちらかというとか弱い動物に近い人間が
どうしてワンステップ進んだのかというと
雑食であり多様な生命に精通していったからである。
無数の動植物の犠牲の上に生命の進化はなりたっている。
喰われる=死と物質界ではそう見えるが
魂魄的にその状況をみると魂は類魂に戻り
魄は相手の体内に漂い相手の魂の成長を促す。
食物連鎖は生物濃縮も進めていくことは良く知られた事実で
例えば有機塩素系殺虫剤やPCBといったものはプランクトン→小魚→魚→水鳥
→猛禽類や哺乳類と食物連鎖するごとに濃度が濃くなってゆく。
これに似て捕食された生命の魄はその意味を深めていく。

魂と魄とを理性で理屈で理解しようとすると失敗する。
魂は天から魄は地からともいうが
どうも天地の概念つまりは陰陽五行も
科学的思考で割り切れるものではなさそうである。

個体としての残虐な死も類魂として見た場合に負にはなっていないし
意味があることだという認識が必要である。
特に動物は類魂として意識を持つから自我の芽生えた人とは少し違う。
生命体同士身を呈しての助け合いの機能が働いている。
喰べる側は現実世界で生命を支えられ魂には成長が促され
喰われた側は類魂に進化のきっかけが蓄積していくことになる。
説明を変えていうと身を呈すということが功徳となり進化に寄与するということになる。
具体的には相手の中に入った肉体が消化されるということは
魄が取り込まれるということであるがこの魄が大地に戻り
次の魂とめぐり合い新しい生命を誕生させる際にいつか進化をもたらすことになる。
喰う側の進化は食べられた魄を留め濃縮することでよりより大きいものとなる。

ここまで書くと肉食に問題ないように捉えられそうであるが
そうではなくそういう側面もあるという認識をまず持っていただきたいだけで
いいたいことはこの生命進化の神秘を理解して
動物 植物 鉱物に毎日接し
この特性に傾聴し生命の本質に気づき豊かなる精神性を獲得していただきたいということであり
この生命への深い理解あってこそ神霊に対する正しい認識が出来るということである。


霊的感応があってもその霊が生命体であるのか
心霊であるのか
あるいは御神霊であるのか
その見極めが必要とされる。
動物 植物 鉱物への傾聴は
その判断をしていく際の道しるべということになる。





自分の魂に神性を見出すためには
どうしても動物 植物 鉱物にたいしての深い理解と愛が必要となる。
真理にたいしても善悪に対してもその正しい判断を下すためには必要条件となる。
人は神と悪魔の善悪を人知で判断することが出来るほどに
成長していない。
そこで判断の道しるべとして生命というものへの理解力が助けになる。
禅でいう「脚下照顧」は言いえている。
上を向くのだけがいいと言う訳でない。
光だけを頼りにすればいいわけではない。
例えば神霊降臨したときに審神は必須であるが、
知恵多き悪霊の手にかかっては我々は軽くあしらわれてしまう。
そのときの一灯となるものである。
老婆心ながら言わせてもらえば
自然への崇敬や地球環境へのやさしさという耳に快い言葉が
絶対的に正しいというわけではない。
自己の利益のためには地球環境の犠牲はしかたない。」とか
我が身など滅ぼうがかまわない。」とか否定的な言葉にも
方便としての真理が備わる場合もある。
目に快く耳に快く心に暖かくても惑わされている場合がある。

聖書では神を試すなというが、残念ながらそれはまやかしである。
聖書に紛れ込んできた悪魔である。
本当は「信じているものを試すなである。」あるいは「一度信じたものを試すな。」である。
文章的には「神を試すな。」は正しいにもかかわらずまやかしなのである。
それが「父母を試すな。」なら主語の確かなる実在が分かるが
「神」をどうやって我々は、本物と見分けるのか?
奇跡は神のなせる業か?
施しは神のなせる業か?
あるいは 破壊は悪魔のなせる業か?
降臨した神霊を神と判断することは並大抵ではない。
その存在を神として掌握出来るかどうかが要である。



神の目から見た現世というものは
我々のいう善悪を超越している。
人類は人一人一人に苦痛のない世界を願うが
神は苦痛を尊ばれる。
我々は恐怖のない世界を望んでいるが
神は人の恐怖を尊ばれる。

これが自然の摂理であり食物連鎖の中で無数の恐怖と苦痛とが
うごめいているのがこの世の中である。

残忍で残虐な殺戮をするのは悪魔というなら
悪魔も神の一面といえよう。

苦痛の無い世界 お互いの思いやりのある世界を望むなら
それを人類の要望として神に我々の望みとして強くアピールする必要がある。

実際のところそれは神にとっての苦痛といえる。
しかしながら我々人類はその基本的な要望を試練に耐え勝ち取る必要がある。

仏陀はその道を自我を断ち切ることに見出した。
自我を断ち切ることすなわち神を断ち切ることに他ならない。
その彼岸に慈悲を夢見たのである。

例えばある植物を育てようとすれば
外敵である昆虫やあるいは雑草に対して敵意を持たざるえない。
育てられる植物 動物にとって頼もしい存在とは
外敵と自分を区別し外敵に対して厳しい処置をとる存在である。
ここに慈悲は存在し得ない。
慈悲という仏教的概念は大宇宙の真理からの超越に他ならない。

残念ながら私はそこまでの絶望を知らない。
私にとっての祈りとは人類が同じ希望を持ちベクトルをそろえ
自我のベクトルを揃え高次の意識に生命のともし火をつけ
人類の希望を高次の存在のエネルギーでもって神に認めさせることである。
そういうことを認識していくことが霊的実践の初歩である。






鉱物

小学生の時から水晶に対する思いは特別なものがあった。
あの剣のような六角柱を結晶させるのが
人為によるものでないということがどうしても信じられなかった。

小学校1年の時 駅前の砂利の中に黄鉄鉱が混じっているのを
目ざとく見つけ友達と競って集めていた思い出がある。
あの輝きは宝だった。
そして黄鉄鉱に5mmほどの水晶が絡むものを見つけると狂喜したものだ。


白銀も黄金も珠も何せむに優れる宝、子に如かめやも/ 山上憶良
と万葉集にあるが、この珠とは翡翠の勾玉のことと思う。
翡翠の勾玉は確かにすばらしい。至宝だと感じる。
日本人に一番合うのは翡翠の緑と常々言ってきたが翡翠への思いは常に変わらない。
翡翠は硬度は石英以下なのにその靱性(じんせい)は尋常では無い。
この歌は素晴らしいが、ただ鉱物という生命を比較の対象にすることには抵抗がある。
山上憶良にとっては珠とは物であって生命という認識に乏しかったわけだ。


瑠璃と玻璃 ルリとハリ
瑠璃とはラピスラズリのことらしい。
玻璃は水晶のことである。
もう22年も前のことであるが熊本の上通りの宝飾店で
ラピスラズリはありますかと聞いたことがある。
その時には宝石じゃないから売っていませんといっていたのに
今では十分に宝石として認知されている。
最近は玉石混交でラピスの高級なものは数百万円もするネックレスもある。
ANAの雑誌にどこかヨーロッパの有名な宝石加工店がラピスのネックレスを
コマーシャルしていたのを偶然目にしたがその輝きはすばらしかった。
ところでこのラピスラズリで高級なものは全てアフガニスタンのバダフシャン産である。
一時期はかなり良質なラピスを目にしていたが最近はほとんどが良くない。
その上かなり精巧な偽物も出回っている。
特に丸珠に多いので一粒カットして中身を確かめるようにしている。
どのようにして製造するか知らないが張り物になっていて数年で表面が剥がれてくる。
そこまで精巧でなくても染色品(トリートメント)が本当に増えた。
数年前確認した時にはルートが戦闘地域を通るので全く採掘されていないと聞いた。
ネット上でも染色品ばかりだ。
しかも性質(たち)が悪いことに売る側が本物と信じている。

鉱物を生命体として接する場合は
エンハンスメント改良品もトリートメント改変品もなるべく避けたいものである。

鉱物への感情をその希少性や美しさだけに求めていては
本質は見えない。
アクセサリーとしての価値と生命のふれあいとしての価値は
別な次元である。
ただ1カラットに何十万円も掛ける気持ちの裏には
宝石という完成された生命体へのあこがれが存在する。

水晶のファセットに現れる三角形のレコードキーパーに耳を傾ける時
レムリアンの意識に触れると言う。



植物

道君首名公が少彦名神の神籬とした柊(ヒイラギ)は、
その話を知ってから特別なものになった。
小天天子宮少彦名神社の拝殿の裏には1m高く盛り土して
御神木として柊が植えられている。
この柊の芽を持ち帰り挿し木にした。
なかなか根付かなかったが3度目にして秋の10月のお祭りの日に持ち帰った柊が
半年後に根付いて新芽が出てきた。大切に育てたいと思っている。


天社宮には樹齢1300年の楠(くすのき)が御神木として根を張っている。
残念ながら上部が切られているためか樹形は低いが
その幹の生命力には威圧されてしまう。
鎮守の杜というように神域に樹木あるいは岩石は必須であるが
もともと大地の氣が集中するところが神域とされるので大木が多くなる。

樹木はどれだけかの年月かが経つと精霊が宿るようだ。
ただ植物としての生命が顕現してこの精霊になるのかよく分からない。
どうも筆者としては違うように感じる。
井戸や大木に宿る精霊は杜や水の精であって
その木の生命体とは別次元で存在しているように感じる。










動物

動物を育てるためには、毎日の愛情と規則正しい給餌が必要で
責任がそこに生じる。

動物の生命は低次なゆえに分かりやすく
人に愛されやすい。
子供は動物には興味を示すが樹木に興味を示さないのは
それだけ動物が低次元で分かりやすいからであろう。
人もある程度経験を重ねて高次な感覚が発達してくると
植物への愛情に目覚めてくる。
それは花を美しいと思うようなこととは少し違い
植物の生命力にたいする共感といったようなものだ。

部屋の中でパキラを育てているが
あの葉の緑緑した生命力に氣が安らぐ。


生命の多様性について

日本の神霊界の大きな特徴として生命の多様性を尊ぶ事があげられる。
これは重要な要素であり八百万の神霊が次々に産み出されたのも
大神が多様性を尊ぶ結果として産み出されたといえる。

多様性を尊ぶということは、無数の生命を産み出すというだけでなく
異質なものに対する寛容のことであり、
例えば思想信仰に対しても考え方の違いに寛容であり
無数の体系が生み出されていくことも多様性を尊ぶということと繋がる。

西洋的神霊界が一つの思想体系にまとまり行く方向を指向するのに対して
日本神霊界はまさに自然界の生命力そのままにある。
生命のルツボを覗き込んでいるようなものだ。
進化はこの多様性と指向性の中であるバランスを取りながら成し遂げられる。
淘汰され高度になっていくことだけが生命の進化とはいえない。
多種多様な生命があふれていくことも別の視点から見れば進化なのだ。

多種への方向性を持ち多種多様な生命体が共存する社会を尊ぶことが
いかに喜びにあふれることかなかなか言葉では説明できないが、
そういう世界観を育む日本の風土と神霊界に非常に感謝している。


ここに一神教と多神教の違いも出てくる。
一神教とは狭いドグマである。

なぜ神を一柱に限定したいのか?
それは結局一柱から生まれそして増え続け最後に一柱に回帰するという
進化の中において淘汰による収束を本能的に感じたからかもしれない。

確かに宇宙もそういう運命にあるのかもしれない。
まさにイスラムとキリスト教ユダヤ教は一柱から生まれ増えそして争い
どちらかが淘汰されるまでその争いが続いていく。
しかしながら日本神界は末広がりな神霊界を形成し続けている。
淘汰はあるとしてもそれに負けない増殖があり
生命と教義の多様性を尊び賛歌している。
近年神道を標榜しながらも収束され淘汰される世界を喧伝する個人団体が散見されるが
日本神霊界の再編に伴いしばらくは収束があるとしても
最終的には再び生命力に満ち溢れた世界がそこに広がり行くと信じている。

そして現在の日本には神道をベースにして仏教 儒教 道教 キリスト教 ヒンズー教など
多様な教義 習慣が溶け込んでいるが、
このような多様性を尊ぶことに伴う思想信条のバラエティ豊かさが、
歴史的に見ても日本の大きな特色でありこれこそが日本と日本人の使命といえる。

第二次世界大戦で神国日本に神風が吹かなかったというけど
それはこの多様性を否定し神霊界不在の国家神道という一つの教義により支配しようとした結果であり
日本人にとって当然の報いであるといえる。
神に対する不敬というものは、個々人と神霊界との間で取り決められるものであり
国家が取り仕切るようなモノでは無い。
尊い若い命を駆り立て犠牲にした国家神道という観念が忌み嫌われるのも仕方が無いのかもしれない。
そして現在に至っても神社の運用形態及び神官の育成が、
神霊界というものを感応する場であることを目的とせずに儀礼に終始することには
骨抜きにされた神柱の立たない神社を増やし、
基本的な日本人のベースたる産土神との繋がりを断ち切るものに感じられてしまう。
本来 神道は厳粛なだけでなくきわめて神秘的なものである。





吉田語録

動物について
動物をペットとして飼うことは悪くない。
ただそういう感情から離れて冷静に観ることもときに必要である。
霊的にみると動物は動く分鉱物・植物より意志が弱い。



植物について

雑草は自由に伸びるから強い。
霊の世界ではこの生命力が尊い。



鉱物について

石は硬い。霊の世界ではこの硬さが尊い。
人の思いも固くなければ意思とはいえない。

鉱物は好物に通ず。
人は時として自分の3ヶ月分の労働価値を宝石の入手に注ぐ。



inserted by FC2 system