工事中



熊本霊ラインと弘法大師 空海



熊本霊ラインとしての氣は万日山頂上でかなり強力であったが
今考えるとそれは開発の手を逃れているのが大きいかもしれない。
頂上には建物やアスファルトの道は無い。
数年前までトライアル練習等で荒れていた地も落ち着きを取り戻しつつある。
そういう意味で独鈷山頂上は開発されたばかりでまだ落ち着いていないといえる。
公園を造るのも墓を作るのも筆者は否定できる立場にはないが
惜しむらくは開発前にこの頂に登ってみたかったものだ。
独鈷山は表現は適切でないとしても他の霊ラインの四山に比べ
磁場というか氣というかあるいはエネルギーが他の山に比べ特殊であるように思える。
この独鈷山は空海の独鈷飛来伝説を持つ
あくまでそれは伝承にしかすぎないと最初気にも留めていなかったが、
霊ラインの解明が進むにつれこの独鈷山の特殊性が引っかかりだしてきた。
それは最初は清正公が味生池を埋めた影響か
公園化開発による一時的な障りによるものであろうと考えていた。
しかしそれだけでない何か秘密が隠されているように思えだした。

700年の道君首名公に始まり1600年代の清正公との防衛レイライン構築の間に
さらにもう一人この霊ラインの力を活用した存在が感じられる。
今年7月この最後の難問に挑戦した。

まずこの独鈷山で特質すべきは頂上より東に位置する八王子神社だ。
ここには以前味生池に住み人民に被害を与えていた毒竜も祭られている。
この竜とは神社より下には降りないとの契約が結ばれたとの言い伝えがある。

また独鈷山は開発中に頂上近くの岩下より法具が出土したとのうわさもある。

手がかりの無い中とりあえず弘法大師空海にあたりをつけそこをきっかけに
手がかりを探すことにした。
空海は774年に讃岐で生まれ835年に高野山で入定しているから
当然道君首名が701年に最初に僧尼令を大安寺で説いたという知識はあるはずである。
あるいは829年には空海はその大安寺の別当に任ぜられていることを考えると
空海も道君首名に感応していたのかもしれない。
手始めに障り無きを願い京都の東寺別当観智院に参詣しようとしたら
いつからか非公開になっていて門前払いを食らってしまった。残念。
この観智院にある「五大の庭」は、
弘法大師空海が唐の長安から日本へ帰還する姿が表されている珍しい庭である。

※ 京都に平安京を遷都した桓武天皇が続日本紀の編纂も指示していて
この続日本紀に異例とも言える記載で道君首名公の業績が褒め称えられている。
空海の第16次(20回説では18次)遣唐使は桓武天皇の御世である。

レイラインの構築者探しの流れは
@藤原清正公→A道君首名公→B空海という流れになっている。
この結界の活用をなにに向けてきたのかということであるが
清正公→徳川家を封じる 
道君首名→藤原家を封じる
と仮定した場合
全然 空海がここに登場する目的が分からない。

未だ空海と独鈷山と結びつけるものが明確に見えてはこない。
空海は唐の留学期間20年のところ2年で帰ってきたので
唐から806年10月に帰国後、博多(宗像?)に到着してからも朝廷の許しが出ずに
京に入ることが許可されなかったそうである。
最澄のとりなしが無ければ処罰されていた可能性が大きいともいわれている。
それで九州大宰府に2年程度足止めされている。
この際肥後熊本に来たのかどうかは史実がない。
伝承では
杖立温泉に弘法大師空海の伝説が残っている。
山鹿にも空海の開基と伝承される金剛乗寺がある。
熊本市内ではこの独鈷山と霊ライン上の神園山に空海伝承が残っている。
従って肥後に来て熊本霊ラインを知り、同時に
京都に帰るための秘術を仕掛けた可能性も0とはいえません。

空海が持ち込んだ真言密教は今までの仏教とは
かなり異質であるが故に九州でいろいろと試してみた可能性も
充分に考えられる。
そして日本結界の最も西の地を肥後独鈷山に定めたとしても
おかしくはないように思える。
残念ながら独鈷山に独鈷が落ちたという伝承がどういう出所なのか
調査しても今のところ答えが出ていない。
飛行三鈷杵に関しては経歴が残っているので独鈷杵はそれにあやかった後世の
作り話とも考えられる。

弘法大師の独鈷山落下伝承
@長野県上田市 独鈷山 中禅寺
A四国高知第36番札所 独鈷山 青龍寺
B丹波国山内庄 稗田野町鹿谷 独狐投山千手寺
C熊本市 独鈷山 


結局手がかり得ぬまま月が過ぎたので思い切って四国八十八ヶ所遍路を決行した。
車での台風の合間を縫っての強行突破で7日間で遍路した。
その甲斐あってか空海と独鈷山とのつながりの可能性は見えてきた。
ただしこのことは筆者の勝手な思い込みであることは認識してもらいたい。


空海が生まれた讃岐は中央構造線が走っている。
この中央構造線上には鉱物資源の水銀丹(朱)の産地が多数有り
弘法大師・空海はそれを採掘する技能集団である佐伯氏から出ているとのことだ。
だから空海も鉱物資源見つけ出す山師の能力に長けていたという説がある。
満濃池の改修に、国守清原夏野の発議により、
弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されると
わずか3ヵ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)
の大池を完成させたということであるが
それには佐伯氏系の尽力が大きかったと考えられる。
ともあれ空海が能力発揮したのはまぎれもない事実であろうが
これが唐から学んだ技術かというと疑問が多い。
筆者は唐留学以前より土木建築の技術に長けていたのではないかと思う。

さて中央構造線は九州で2つに分かれているがその一つが大分熊本構造線で
このラインと独鈷山立田山活断層は繋がっているように思える。
空海が中央構造線の延長上にある肥後に興味を示したとしても不思議はない。
中央構造線は紀伊半島も通っているがそこにも空海の足跡が残っている。
また後述するように道君首名公の灌漑治水事業に興味を示し
肥後の味生池を見て回った可能性もかなり高い。
だとすれば熊本霊ラインのすごさに必ず気づくわけで
独鈷山にて京に帰るための秘術 あるいは京都で活躍するための
秘術を仕掛けた可能性はかなり高くなるだろうと思える。




ところで四国讃岐の灌漑池である満濃池をはじめて作ったのは誰かと言うと
大宝年間(701〜704)の国守道守朝臣(みちもりのあそん)による築造であることは
インターネットでも多数ヒットする。
この話は文献に残る最初のものだが、これが不思議。
国司は律令とほぼ同時に制定されている訳であるから
たぶん道守朝臣は初代国司である可能性が高いことになる。
しかし続日本紀には道守朝臣という人物は登場しない。
調べていくと出所は万農池碑銘(萬農池後碑文)によるものらしく
この碑は平安時代のものらしい。

続日本紀を読むと708年和銅1 3月13日 従五位上の大伴宿禰道足を讃岐守に任命する
という記載があるので大伴道足を讃岐国司の初代とするのが妥当。
(この時にかなりの国守が任命されている。これがおのおの初代の可能性大。
また藤原不比等は右大臣に任命されている。)

さて先ほど不思議といった国守道守朝臣の正体であるが
この答えは個人的な見解ではあるが

たぶん国守道守朝臣とは道君首名公のことであろうと推察される。


問題は本当に満濃池を道君首名公が作ったのか
それとも味生池で名をはせた道君首名にあやかり後世に作られた話なのかだ。
それともうひとつ筆者なりには、肥後の味生池を訪れた空海が
感応して道君首名公を称えてそういう伝説を作り出したという気もしている。
溜池を灌漑に使うというのは筑紫の道君首名公の施策であるのは間違いない。
道君首名公は溜池だけでなく柳川の水路等、筑後肥後で広大な範囲にわたって
灌漑治水事業を行っており空海がそれに興味を示さない訳が無い。
道君首名が701年に最初に僧尼令を大安寺で説いたということや
大宝律令に携わったということや大國主命少彦名神を祭祀して
伝染する疱瘡を平癒させた経緯と死後は人として初めて神として祭られた事などが
伝説として伝わり空海を奮い立たせたような氣が強くしている。


もともと讃岐の溜池が先でそれを知った道君首名が
筑紫や肥後の味生池を築いたという可能性もある。
ただ肥後の味生池が持つ意味に関してのみは
灌漑用というよりも大地のエネルギーのコントロール用の意味合いが強い。
肥後の地は雨が多く讃岐ほどに溜池を必要としない。

道君首名公が讃岐において満濃池を作った可能性は大きいといえる。
不比等がその時期に讃岐に渡った話も残っている。
今後 この点は解明していきたいと思っている。

ただこれは個人的見解でしかなく、さらに国守道守朝臣を調べると
道守という名前もこの時代には存在するようだ。
763年には道守王(ちもりのおおきみ)という名がみえる。
道守王は備中守に任ぜられている。   続日本紀

※ 道守朝臣(ちもりのあそみ)は 波多朝臣(はたのあそみ)と同じ祖。
武内宿禰(たけしうちのすくね)の男、八多八代宿禰(はたのやしろのすくね)の後。
という検索結果も記載しておく。


不勉強なところもあるが道君首名も続日本紀では
道首名と書かれたり下道君首名や道君首名と書かれたりして
もともとは道氏からの別れであり君や守は付属している姓(かばね)である。
君や臣姓の氏族は在地の豪族であり連(むらじ)姓よりも身分が高かった。
ところでこの「君」という姓は759年に「公」に改めさせられている。
従って759年以降の碑であれば道君首名はさしずめ道公首名となろうし
朝臣とは朝廷から賜る姓であるが道君首名の子孫は
当道朝臣(とうどうあそん)という姓を朝廷より賜ったという話である。
だとすれば当道朝臣首名ということになる。
しかしながら情報が伝わらず道君を道守と表現した可能性もあるのではなかろうか?

初代国司の大伴宿禰道足であるが彼の名にも道がついている。
宿禰は上記道守の血筋につながる武内宿禰を連想させる。
しかしながら連姓の氏族は宿禰に天武朝時代に変えさせられたとのことである。
しかし彼が後年に国守道守朝臣と伝えられた可能性も否定はできない。

今回この満濃池に結びついた経緯が
空海が讃岐では灌漑池をたくさん作るよう指導したという伝説の元を
彼が肥後や筑紫で見た道君首名が作った灌漑池を勉強したからと
筆者なりにひらめいたのである程度は自信がある。
ただ讃岐の溜池がいつ頃から出来始めたかについては
史実による明確な答えが見つかっていない。



四国を回った後 中央構造線を追って紀伊まで足を伸ばした。
紀伊には空海の本拠地とも言える高野山がある。
中央構造線の東の端は諏訪でここで結局糸魚川・静岡構造線に突き当たっている。
太古には熊本-諏訪を結ぶ霊的なラインだったものを
道君首名公は奈良に向け空海はそれを学び加藤清正は京に向けたということになる。
筆者はこの地を日本再生の西の要の地として日本国の文化 経済的発展を祈っている。
出口王仁三郎師も熊本は経済的発展の曙の地と言ったというが
それは中央構造線の西の端であり大阿蘇が聳え
それをあやつる熊本霊ラインが存在するということを予知してのことだと思う。









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