道君首名メモ




                熊本健軍神社 山門


                
         健軍神社内の道君首名を祭祀する天社神社





                   味噌天神宮




             味噌天神神社入口の由緒書




               味噌天神神社内の由緒書
味噌天神は奈良時代の713年(和銅6年)、元明天皇の御世に建立されました。
肥後の初代国司の道君首名のとき、悪疫が流行して多数の死者が続出し、
人々は悩み苦しみました。
そこで国司道君首名は、疫病平癒祈願のために、
現在地に神薬の神として「御祖みそ天神」を祭祀されましたら、
まもなく疫病はおさまったと伝えられています。
.........
味噌天神祭神についての考察は以下






           高橋東神社 道君首名を祀る天社宮

                   天社宮地図






 天社宮が710年勧請とするのは道君首名が筑後肥後守赴任前なので
 疑問が残るが....




        熊本市の記録としては樹齢1000年以上になっている



久留米市大善寺町夜明にある印鑰神社 (夜明神社)に道君首名の墓といわれる
乙名塚 (おとなずか)がある。
これは首名塚=おびとなずか が訛ったものと思われる。
おぶとさん おびとさん も同様 


首名の漢詩  (懐風藻)

正五位下筑後肥後守道公首名  一首  年五十六

    五言 秋宴 一首

望苑商気艶 鳳池秋水清 晩燕吟風還 新雁払露驚

昔聞濠梁論 今弁遊魚情 芳筵此僚友 追節結雅声


道君首名関係 歴史年表

659     藤原不比等生まれる
662     道君首名生まれる
684     天武天皇八色の姓を制定 (真人 朝臣 宿禰 忌寸 道師 臣 連 稲置)
686     天武崩御 
690     持統天皇(女帝)が即位 
694     藤原京遷都
701     大宝律令制定 道君首名も制作のメンバー  下にメンバー19名記載
701 4/07下毛野朝臣古麻呂ら3名が初めて大宝令講釈する。
701 大宝1 6/01 正七位下の下道君首名に僧尼令を大安寺で説明させる〔続日本紀〕
702 2/01 新律である大宝律を天下に頒布
702 6/29 昨年出発した遣唐使やっと九州から渡船 遣唐使は30年ぶり
702 10/14 大宝律令をすべての国に頒布
704 慶雲1 遣唐執節使 直大弐粟田朝臣真人 帰朝
707/6/25 文武天皇は25歳で崩ぜられた。首皇子(おびとのみこ)は当時7歳と幼少
707    元明天皇(女帝)が即位する
710   平城京に遷都
711 4/07 道君首名 従五位下授与
712    太安万侶『古事記』
712 和銅5 9/19  道首名を遣新羅大使に任じる〔続日本紀〕.
713    風土記編纂 元明天皇が諸国に命じる。
713 8/10 道公首 (道君首名)が帰国する
713 8/26 道君首名 和銅6年に筑後肥後守に任じられる (最初は筑後守のみかも)
715 1/10 道君首名 従五位上授与
715    元正天皇(女帝)が即位する
716    養老律令を藤原不比等が編纂 718制定 757施行
718    懐風藻に掲載される漢詩つくる 
718/4/11 養老2年 56歳で正五位下の道君首名没
720    日本書紀が完成する
720    藤原不比等死去
751    漢詩集『懐風藻』ができる。 道君首名 1首あり


平城京には、およそ1万人もの役人が住んでいたといわれています。




道君首名が祀った味噌天神のもともとは由緒書きによると御祖天神らしい。
御祖と上記宮子皇太夫人の呼び名大御祖(おおみおや)とは関係が無いのか?
宮子と道君首名と首皇子のなんらかの繋がりを感じる。
この件については後日、羽衣伝説に始まる豊受大神との関係についても
考察していく予定でいる。

20041215 追記
先週末に京都の八坂神社に参拝していて摂社の五社に参拝したときに
味噌天神の祭神についてひらめいた。
ここの五社のひとつ天神社は祭神が少彦名命となっている。
実は丹波の出雲大神宮に前日赴いているのだが
ここに事代主神と少彦名命を祀った笑殿社というのがあり
ここに参拝したときに笑うという字に含まれる天という字が
少彦名命を表わすものであるのではないかと感じていたばかりで
次の日に八坂神社摂社の五社に参拝して確信が持てた。 ※この五社については後記
少彦名命を天神と言っていたのだ。
つまり道君首名公は少彦名命を熊本で疫病が流行った際に祭祀したという訳である。
従って味噌天神は祭神は少彦名命である。
医薬の神様だあるから当然といえば当然であるが
醫祖天神→御祖天神→味噌天神という流れで味噌になった訳である。
この醫祖という漢字は医祖ということになる。
道君首名公を祀る所が天社宮となっているのは
道君首名公が少彦名命を神降ろすことにより疫病をくい止めたことに
ちなんで天の一文字を付けたという訳であろう。

八坂神社摂社の五社は八幡社 竈社 風神社 天神社 水神社の五社で
天神社の祭神は少彦名神で例祭日は十二月八日となっている。


20041219追記
味噌天神の祭神について少彦名神と確信が持てたので
googleで道君首名と少彦名神で検索していたら
「地域発ふるさとの自然と文化」という熊本県のホームページで
「天子宮の火祭り」というのを偶然見つけることが出来た。
熊本県玉名郡天水町小天に小天少彦名神社というのがあり
ここで道君首名公の威徳をしのび、
毎年10月15日の夕方から火祭りが行われているというのだ。
今まで道君首名で検索した時には見つけることが出来なかったホームページだ。
これによると道君首名公が筑紫に赴任してすぐより疫病が蔓延して
それを収めるべく少彦名神と大國主命をこの地で七日七晩祭祀して
その霊験により疫病を食い止めたということらしい。
その祈願中に火渡りを道君首名公が行ったらしく
それが現在においてもめんめんと「天子宮の火祭り」として
受け継がれているということだ。
道君首名公の威徳をしのぶ祭りが現在も残っていると知り嬉しいかぎりである。

早速 小天少彦名神社(天子宮)に参拝してきた。
まず非常に氣のいい神社だと思った。
熊本市の道君首名公を祭る天社宮と天子宮との名前が似ているが
元は天社宮は天子宮と呼ばれていたような気がする。
参拝していたら火祭りを管理をされている組長さんのような方に呼ばれて
由緒書きと火祭り行事の作法書を渡された。
当時の道君首名公の苦慮と神霊との交わりの真摯さが良く分かる
いい内容であったので、この由緒書きを無断ではあるが添付する。
道君首名公の民を思う気持ちと
神霊に対する純真なる熱意が神霊を動かすという真理に感動を覚える。
またそれ以来綿々と祈願の火祭り神事が1300年の永きに渡り
この地の氏子に継続してきていることも頭が下がる思いである。

http://www1.bbiq.jp/sukunahikona/shoutenn.htm


天神社」で少彦名神を主神として祭祀している神社を検索したら
奈良市の高畑町の 「天神社」が見つかった。
ここの天神社略縁起によると
「もともとは少彦名神の一神を祀る天神社でしたが
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、
道真の霊を祀る天満宮が各地に奉祭されるにともなって、
ここの神域にも、相殿が建てられて、御霊(ごりょう)信仰の主神であり学問勉学の神でもある
菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。」
と記載されている。 今後さらに天神社については調査していきたい。

上記 記載から数年後に少彦名神調査で神社を巡ってきた。
詳細は以下のページ参照のこと
http://www1.bbiq.jp/sukunahikona/sukuna/sukuna.htm



大宝律令 たいほうりつりょう
飛鳥時代の701(大宝1)年に制定された律令政治の基本法。
▽文武(もんむ)天皇の命令で,
刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らが中国(唐)の法律を参考にしながら,
日本の実情に合うように編集した。律6巻,令11巻。

700年6月17日文武天皇は大宝律令の撰修を命じた。
撰修は刑部親王を総裁として、
藤原不比等ら貴族、
伊余部馬養ら法学者、
粟田真人ら遣唐使、
ほか
留学生・渡来系氏族出身者・渡来人など19人を中心とした。
例えば薩弘恪は唐からの初代渡来人であり、
音博士として、日本の古い読音である呉音を漢音に改める発音を教授している。
律(=刑罰法)、令(=教令法・行政法)、格(=単行法令)、式(=施行細則)から成る成文法で、
唐の永徽律令(650年制定、651年施行)を範とし、
令11巻28編(条文数約900)、律6巻12編(条文数約500)と伝える。
令は700年(文武4)に完成し、701年(大宝1)6月に施行。
律は701年(大宝1)8月に完成、702年(大宝2)2月に施行された。

「大宝律令」の全文は散逸してしまって今日伝わっていない。

続日本紀に記載されたメンバーは以下19名
・淨大参の刑部親王
直広壱の藤原朝臣不比等
・直大弐の粟田朝臣真人 (入唐使)
・直広参の下毛野朝臣古麻呂
・直広肆の伊岐連博徳
・直広肆の伊余部連馬養
・勤大壱の薩弘格
・勤広参の土師部宿禰甥
・勤大肆の坂合部宿禰唐
・務大壱の白猪史骨
・追大壱の黄文連備
・田辺史百枝
道君首名
・狭井宿禰尺麻呂
・追大壱の鍛造大角
・進大壱の額田部連林
・進大弐の田辺史首名
・山口伊美岐大麻呂
・直広肆の調伊美伎老人


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続日本紀   
よみ:しょくにほんぎ
時代:平安時代

内容:日本書紀に続く勅撰の歴史書。六国史の二番目に当たる。
697年より791年に至る95年間の記録を編年体でまとめたものである。
40巻が完成し奏上されたのは797年であるが、
光仁朝迄に30巻は完成していた藤原継縄・菅野真道・秋篠安人らによって最後の六巻が編集された。

続日本紀の道君首名

「718年4月11日 筑後守・正五位下の道君首名が卒した。
首名は若くして律令を学習し,官吏としての職務によく通じていた。
和銅末年に地方官となり,筑後守に任じられ,兼ねて肥後国も治めた。
人民に生業を教え勧め,箇条書きの規定をつくり,耕地には稲のほかに果物や野菜を植えさせた。
はては鶏や豚に到るまでみな規定を設けて,それは適切をきわめていた。
そのようにしておいて,時折巡察し若し教えに従わない者があると,程度に応じて罪を考え罰した。
はじめのうちは老人も若者も,ひそかにこれを怨み罵ったけれども,
その実績が上がるにつれて,喜んで従わない者はなくなった。
1,2年もすると国中の者がその指導に従うようになった。
また堤と池を構築し灌漑を広めた。
肥後の味生池(あじういけ)および筑後の処処の堤池は,みな首名の設けたものである。
これによって人々はその利益を蒙り,今もその恩をうけているのは,みな首名の功績である。
それで官人の仕事について論ずる者は,すべて首名を第一にあげて称えた。
首名が死んでからは,人民たちはこれを神として祠った。」
(出典 宇治谷孟訳「続日本紀 上」講談社文庫P192 \1250


道君首名時代の仏教

奈良時代に入ると、遣唐使によって唐から輸入された学問仏教が奈良の諸大寺院で学ばれた。
これは一口に南部六宗といわてれおり、三輪・成実・倶舎・法相・華厳・律の6宗をいう。
このうち法相宗とは、インドに由来する唯識教学を研究する学派で、
今日、興福寺と薬師寺を二大本山とし、その伝統を伝えている。
また、華厳宗は、東大寺を大本山とし、
中国の賢首大師法蔵が華厳経に基づき大成した華厳教を研究する学派である。
東大寺には、752年、華厳経の教主・毘盧遮那仏をかたどる大仏が建立され、
この東大寺を総国分寺とする国分寺の組織も整備された。
総じて、奈良仏教は、鎮護国家的性格を有していた。
なお、754年、唐から鑑真(688〜763)が来朝し、授戒の制を確立した。
鑑真の開創した寺院が唐招提寺で、今に律宗を伝えている。

道君首名が作った味生池の金峰山側(西側)に作られた池辺寺に道君首名は
関与していないのか?調査中

熊本県文化財通信より
池辺寺は、金峰山の南東側に位置し、古代から近代(明治年間)まで続いた寺院です。
創建は、元明天皇の発願により和鋼年中(708〜714)と伝えられています。
池辺寺関連の遺跡は、池上町に点在するものと見られますが、
今回の指定対象地域は、調査が進んでいる百塚地区の一部です。
ここには、東向きの建物群跡とその背後斜面の石積み遺構群が極めて良く残されています。
また、石積み遺構群からは、石製の相輪や宝珠が出土していることから、
石積みの上には、塔が立てられていたものと思われます。
出土遺物は、布目瓦(ぬのめがわら)、土師器(はじき)、須恵器(すえき)、石造物などがあります。
布目瓦や土器などから、この遺跡地点の建物群や石積み遺構は平安時代初期に造営され、
建物は平安時代中期まで継続したものと見られます。
このような石積み遺構を伴う寺院跡は、全国的にも類例がないものであり、
また、特殊な建物群の配置など、平安時代の山岳寺院の性格を知るうえで、
学術上貴重な遺跡です。   以上

また万日山には来迎院という寺院があり、
やはり同時期の大宝年中(701〜)建立と言われている。
小西行長により破壊された(坊主は生き埋めにされた)というが真実は不明。
万日山はその昔は朝日山と呼ばれていたということ。



風土記 ふどき
奈良時代に編さんされた日本最古の地理書。
▽713年,元明天皇が諸国に命じて,
その国の地勢・産物・地名の由来・言い伝えなどを記録させたもの。
現在,『出雲国風土記』の完本と
常陸(ひたち)・播磨(はりま)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)国の風土記の一部分がのこっている。


道君首名のその後の調査結果

道氏一族について

熊本高橋東神社天社宮 由緒書きに道君首名は大彦命の後胤と書かれている。
おおひこのみこと 10代嵩神(すじん)天皇時代の武人。
嵩神天皇の命により、北陸の乱を鎮める。
大彦命を祖とする氏族は道氏,阿部臣,膳(かしわで)臣,阿閇(あへ)臣,
狭狭城山君,筑紫国造,伊賀臣。   「新撰姓氏録」


道君一族は古墳時代後期にはすでに北加賀地方を支配していたと考えられる
道君一族であるが越の国での痕跡としては
野々市町末松にある末松廃寺跡(すえまつはいじあと)がある。
これは7世紀末〜8世紀初頭建立と考えられる。


また越の道君族の祖は、前述したが大彦命(大毘古命)といわれている。
大彦命であるが敢国神社をはじめ多数の神社で主要祭神として祀られている。
日本書紀の「孝元天皇条」を見ると以下が記載されている。
「孝元天皇は、七年春二月二日、欝色謎(うつしこめ)命を立てて皇后とされた。
后は二男一女を生まれた。
第一を大彦命という。
第二を稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひひ)天皇という。  ※漢風諡号は開化天皇
第三を倭迹迹姫命という。
妃の伊香色謎命は彦大忍信命を生んだ。
次の妃、河内青玉懸の女、埴安媛は、武埴安彦命を生んだ。
兄の大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣等すべて七族の先祖である。」

崇神天皇条に大彦命はさらに出てくる。
「十年九月九日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。
詔りして『もし教えに従わない者があれば兵を以って打て』といわれた。
それぞれ印綬を授かって将軍となった。     ※四道将軍と呼ばれる
二十七日、大彦命は和珥坂についた。ときに少女がいて歌っていた。
ミマキイリビコハヤ、オノガヲヲ、シセムト、ヌスマクシラニ、ヒメナ、ソビスモ
そこで大彦命は怪しんで少女に尋ねた。
『御前が言ってることは何のことか』と。
答えて『言っているのではなく、ただ歌っているのです』と。
重ねて先の歌を歌って急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、仔細に有様を報告した。
天皇のおば、倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫命は聡明で、よく物事を予知された。
その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇に云われるのに、
『これは武埴安彦が謀反を企てているしるしであろう。
聞くところによると、武埴安彦の妻吾田媛がこっそりきて、
倭の香具山の土をとって、頒巾(ひれ)のはしに包んで呪言をして、
“これは倭の国のかわりの土”といって帰ったという。
これでことが分かった。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう』と。」

さきほどの歌の意味は以下のようである。
「御間城入彦はや 己が命を 弑せむと 窃まく知らに 姫遊すも」
ミマキイリヒコよ。あなたを殺そうと時をうかがっていることを知らないで若い娘と遊んでいるよ。

崇神天皇は四道将軍を任命して、日本の統一を積極的に推進し始めた。
四道将軍の系譜を見ると、四人の将軍がそれぞれの世代に分かれていることに気づく。
即ち、吉備津彦命は孝元天皇と兄弟で、崇神天皇にとっては祖伯父にあたる。
大彦命は開化天皇の兄弟で、崇神天皇の伯父にあたる。
武淳川別命は大彦命の息子で、崇神天皇の従兄弟である。
そして丹波道主命は崇神天皇の兄彦湯産隅命の息子で、崇神天皇の甥である。
曾祖父さん、祖父さん、親父、息子の四世代ということになる。

大彦命は越の国を平定後この地に住み着き道君一族の祖となる。

20070504追加記載
「福井県史」通史編がネットで公開されていて
そこに道君氏についてのいくつかの記載があった。


リンク福井県史 道君と江沼臣 抜粋

道君の本拠は加賀郡のうちでは比較的南に位置し、江沼郡と接していたようである。
道君と江沼臣の不仲の主因は、白山信仰の主導権争いにあるという説がある。
(藤間生大「いわゆる継体欽明朝内乱の政治的基盤」 『論集 日本歴史』一)
加宜国造が道君であることもうかがわれる。
加宜国造と同祖なのは、高志深江国造で、
「瑞籬朝御世、道君同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっていて、
明らかに同一人物を祖先としている。
道君は、竹内宿禰系との伝承ももっている。
道君は六世紀の後半ごろ、蘇我氏と接触をもち、同祖系譜を手に入れたのではなかろうか。
ただし『新撰姓氏録』は道公(君)を大彦命の後裔と伝えているから、
そうした伝承をもった時期もあったのであろう。
この道君は平安時代まで続く名族。
(これは筑後の道君首名の後胤とは別系統として継続)

江渟臣裙代の密告によって高句麗使の来着と道君の越権を知ったヤマト朝廷が、
膳臣傾子を越に派遣して事実関係を確認するという事件が起こっている。
道君は最初高句麗使に向かって、みずから天皇であると言ったらしい。
もちろんこの時代に天皇という用語はなく、大王といったはずであるが、
高句麗使は疑いながらも、調物などを渡してしまったらしい。
膳臣傾子は現地に赴いて道君を責めたが、
高句麗使らは道君が倭国の大王でないことを悟り、道君に調物を瞞着された事情を傾子に語った。
これによって傾子は、捜索して調物を高句麗使に返還させ、
傾子は大和に戻って事情を説明したという。
高句麗使たちは、迎えによって入京することになった。
『紀』欽明天皇三十一年七月壬子条に「高麗の使、近江に到る」とあるから、
現在の福井県内を通過したことは疑問の余地がない。
さらに「是の月に、許勢臣猿と吉士赤鳩を遣わして、難波津より発ちて、船を狭狭波山に控引して、
飾船を装いて、乃ち往きて近江の北の山に迎えしむ」とみえる。
この北の山の正確な位置はわからないが、おそらく琵琶湖の北岸であろう。
したがって、高句麗使は敦賀から七里半越えか深坂越えか、
いずれかの道を通って近江塩津か海津の港に出たものであろう


 『日本書紀』(以下『紀』)でのこの件の記録を記する。
欽明天皇三十一年(五七〇)四月乙酉条に、
「越の人江渟臣裙代、京に詣りて奏して曰わく、
『高麗の使人、風浪に辛苦し、迷いて浦津を失えり。
水の任に漂流いて、忽に岸に到着す。郡司、隠匿せり。故、臣顕し奏す』と。
詔して曰わく、『朕、帝業を承りて若干年なり。高麗、路に迷いて始めて越の岸に到る。
漂溺に苦しむと雖も、尚性命を全うす。
豈徽猷広く被らしめ、至徳巍巍に、仁化傍く通わせ、洪恩蕩蕩たるに非ざらんや。
有司、山城国相楽郡に館を起て、浄め治いて厚く相資養せよ』と」とあり、
さらに同年五月条には、「膳臣傾子を越に遣して、高麗の使に饗たまう。
大使、審かに膳臣は是皇華の使なるを知る。乃ち道君に謂いて曰く、
『汝、天皇に非ざること、果たして我が疑えるが如し。汝、既に伏して膳臣を拝めり。倍復百姓なることを知るに足る。
而るに、前に余を詐りて調を取りて己に入れたり。
宜しく速やかに之を還すべし。煩しく語を飾るなかれ』と。
膳臣、聞きて人をして其の調を探索し、具に為与う。京に還りて復命す」(編五四)

以上の件に関しては
大和朝廷から道君氏が処罰されたという記載が無い。
また時は筑紫磐井の乱の起こった時代であるので大和朝廷が九州からこの越までを
統一し完全に掌握していたのかということについては疑問もある。
意外と九州にも越にも王朝があったという異説も的を得ているかもしれない。



さて道君首名関連であるが、
天智天皇(626-671)の側室に越道君娘(こしのみちのきみのいらつめ もと采女)がなり
その子供が施基皇子しきのみこ(?-716)である。
施基皇子と紀朝臣橡姫(側室)との間に出来た第六子が白壁王(709-781)。
白壁王は49代天皇で漢風諡号は光仁天皇 国風諡号は天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇。
称徳天皇は生涯独身で子がなく、他に天武天皇の子孫たる親王、王がなかったため、
天智系の白壁王(光仁天皇)が62歳にして天皇に即位した。
ここにて天武系は消え去ることになる。

道君首名と越道君娘は親族の可能性が高い。
続日本紀に道君首名が記載されたのには、
あとに天智系の白壁王が光仁天皇として即位したことにより
天智系関係者を持ち上げる指示により続日本紀に記載された可能性が考えられる。

藤原不比等は父の鎌足が天智系であったにも関わらず
持統天皇に最初見出され律令の整備に活躍している。
道君首名が越道君娘との縁で登用されていたのなら
やはり持統天皇に才能を見出されたのであろう。
持統天皇は天武天皇の皇后ではあるが天智の娘であり
天智と天武が血筋が違っていたという可能性を考慮すると
天武が行おうとしていた律令政策は引き継ぐものの
天智系の血筋も大切にしたのかもしれない。
その後も道君首名は文武天皇(683-707)に信頼されていたと考えられるが
文武天皇は25歳の若さにして崩御しその後元明天皇(女帝)が皇位につくと
藤原不比等は右大臣に任命されさらに重用されるようになる。
もしも文武天皇があとしばらく在位していたのなら聖徳太子の願う公民のための
律令制度が日本国に根付いていたかもしれないし
藤原不比等による神道系列編纂も日本書紀の介入内容も大きく変わっていたはずである。

そしてこのころから朝廷では道君首名はだんだん活躍の場を失ったのであろう。
藤原不比等が律令制度を我が物とし他の豪族を衰弱させて自分の地位を向上させる中で
同じく大宝律令に関わり律令の重要性を知る道君首名にとって
藤原不比等の政策は当然許しがたいものであったはずである。


712年には道君首名は新羅大使となっているが唐の律令は良く新羅に伝わっており
新羅の律令文化摂取の意味合いが強かったのであろうか?
しかしながら717年に遣唐使が再開されているあたり日本と新羅の関わりは
天武系が衰弱していく中ではかなり難しいものがあったと考えられる。
そもそも持統天皇は少なくとも夫である天武天皇の親新羅政策を完全には継承はしていない。

また702年に遣唐使に随行した道慈 (俗姓 額田氏)は
長安で学んだあと712年に帰国している。
道慈と道君首名公とが712年に会っているのかは不明であるが、
この道慈は大安寺の平城京遷宮の主導者となっている。
唐からの情報はかなり詳細に都に伝わっており
日本国建国の下地となっていることは間違いなく
道君首名公も熟知していたものと考えるほうが妥当であろう。
道君首名公が単なる貴族というだけでなく若くして大宝律令の
撰修にも関わった偉人であるとの認識に立てば
彼の新羅使としての役割とは揺れ動く国策の中で不運にも孤立を産むもので
あったのかもしれない。


遣新羅使 履歴
天武4年 (675年) 大伴連国麻呂 (小錦上)
天武5年 (676年) 物部連麻呂=石上朝臣麻呂 (大乙上)
持統2年 (688年) 田中法麻呂   直広肆 (従五位下相当)
持統6年 (692年) 息長真人老   直広肆
持統9年 (695年) 小野朝臣毛野 直広肆
文武4年 (700年) 佐伯宿禰麻呂 直広肆
大宝3年 (703年) 波多朝臣広足 従五位下
慶雲元年(704年) 幡文通 従六位下  
和銅5年 (712年) 道君首名 従五位下
養老3年 (719年) 白猪史広成 従六位下
養老6年 (722年) 津史主治麻呂 正七位下

遣唐使 履歴
大宝2年 (702年) 粟田朝臣真人 正四位下
養老元年(717年) 多治比真人県守 従四位下
天平5年 (733年) 多治比真人広成 従四位上 



天智天皇は親百済政策
天武天皇は親新羅政策
藤原不比等は百済系
道君首名はもともとは高句麗系
といったところか。


藤原朝臣宮子 ふじわらのあそみみやこ
生没年 ?〜754(天平勝宝6)

系譜など 不比等と賀茂朝臣比売の娘。光明子の異母姉。

略伝 697(文武1)年8.20、文武天皇の夫人となる。
701(大宝1)年、首皇子(後の聖武天皇)を出産。
これ以前から「人事を廃し」(続紀天平9年12月条)ていたため、
出産後首皇子と面会することは無かったという。
723(養老7)年、従二位。724(神亀1)年2.4、子の首が即位(聖武天皇)。
その直後の2.6、天皇は正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する勅を発するが、
同年3.22、長屋王らがその称号の令に違反することを指摘し、
天皇は先勅を撤回、公式には令通り「皇太夫人」とし、
口頭では「大御祖(おおみおや)」とする詔を発する。
737(天平9)年12.27、皇后宮で玄ム(げんぼう)の看病を受け、正常な精神状態に戻り、
偶然行幸した聖武天皇に初めて相まみえる
(続紀の記事によれば、聖武天皇はこの時まで生母の顔を見たことがなかったという)。
754(天平勝宝6)年7.19、崩ず。火葬される。
760(天平宝字4)年12.12、太皇太后(宮子)・皇太后(光明子)の墓を山陵と称し、
忌日(7月19日・6月7日)を国忌とする。

今年筆者は宮子姫をたどってとうとう道成寺まで足を伸ばした。
しかしながら特に収穫は無し。
ただ宝物館の仏像類は圧巻。行った甲斐はあった。

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道成寺の創建にまつわる伝説に「宮子姫髪長譚」がある。
今から1300年前の 8世紀ごろ、
紀伊国・日高の九海士(くあま)の里(現・御坊市藤田町吉田)の
海士夫婦に女の子が生まれ、宮子と名づけられた。
ところがこの子にはいつまでたっても 髪の毛が生えてこなかったため両親は嘆き悲しんでいた。
ある日、母が海底で光り 輝く黄金の観音像を見つけ拾いあげた。
両親は観音像をまつり「わが子に髪の毛が生 えますように」と祈り続けたところ、
驚いたことに娘に毛が生え始め、やがて見事な 黒髪が生えそろい美人に成長した。
この黒髪の美女のことを藤原京の都で権勢をふるっていた藤原不比等が知り
養女 にした後、文武天皇の妃になり聖武天皇の生母となった。
宮子は黒髪を授けてくれた 観音さまをきちんとお祭りしたいと文武天皇に願い出た。
天皇は紀大臣道成に命じて 大宝元年(701)に寺を建立させ、
寺名を道成の名をとって道成寺とした。

宮子姫が養娘であったのか、不比等の実子であったのかは結局のところ定かではない。

ここで宮子姫について記載したのは、道君首名の名前の首と首皇子(おびとのみこ)の
首という字のもつ意味を知りたいと思って調べているため。
ちなみに紀大臣道成という人物は仮空の人物であった可能性が高い。
で繋がる秘密が何かあると感じている。



道君首名公と菅原道真公についての考察

2006/08/17
祭神及び神名乗っ取り研究会でも言及しましたが
少彦名神祭祀の天神社を菅原道真公が乗っ取っているということに関しては
道真公亡き後のことであり責任が道真公にあるわけではありません。
時の勢力が勝手に恐れ勝手に祭っただけです。
しかし神霊背景があったのは間違いないようで
無念の氣というものも感じています。
私自身は道君首名公を調査してきたのですが
空海だけでなく菅原道真の大宰府左遷後の生活において
道君首名公の精神に菅原道真公が感応したような背景を感じます。
718 養老2年 4/11  56歳で正五位下の道君首名は没していますが
903 延喜03年 2/25  59歳で道真も大宰府にて没しています。
菅原道真が200年前の道君首名公を認識していたかというと
菅公がたどった歴史を読み解くと
道氏については当然認識が深かったように思えます。
まず菅公は882年に加賀国に到着した渤海国の大使を応接するために
翌年883 元慶07年 加賀権守という役職についています。
加賀といえば道氏の本拠地であり道君首名公が生きた白鳳時代に
加賀平野のほぼ中央、手取川扇状地に造営された道氏一族が建てたと言われ今に伝わる
「末松廃寺跡」は金堂や七重の塔をもつかなり大きな寺院であったとされています。
法隆寺五重塔よりも大きな塔の礎石など見る限り当時の隆盛が窺い知れます。
この道氏の希望の星が道君首名公であり
その道氏の繁栄の背景は天智天皇の側室の越道君娘の子供である施基皇子から
繋がる白壁王が49代天皇(漢風諡号は光仁天皇)になったことであろうかと思います。
また菅公は886年 仁和02年に讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任しているのですが
讃岐国といえば空海の故郷でありこの地の満濃池については
「熊本霊ラインと弘法大師 空海」で考察したとおりです。
道君首名公はこの道氏の故郷の加賀よりかなたの九州の地で
国司としての役割を果たし民のために心から尽くしています。
残念ながら道君首名公は筑後・肥後国司から京に戻されることなく九州の地で
没することになるのですが、このことを菅公はわが境遇になぞらえた事でしょう。
そして道君首名公の精神性は菅公を刺激したのではないでしょうか?
1300年後の現代にまで道君首名公の偉業は伝わっているのですから
菅公の時代にはまだ民の記憶に深く残っていたことでしょう。
首名の漢詩が懐風藻に残っています。
正五位下筑後肥後守道公首名  一首  年五十六
つまり道君首名公が亡くなられた年の歌となっています。
実際は4月11日に亡くなっていますので前の年の秋に作られたものでしょう。

    
五言 秋宴 一首

望苑商気艶 鳳池秋水清 晩燕吟風還 新雁払露驚

昔聞濠梁論 今弁遊魚情 芳筵此僚友 追節結雅声

秋の日の気配が濃くなったある日に友人たちと湖畔に遊ぶという歌ですが、
荘子と恵子との「魚の心情が分かるか」という論議のことを
さりげなくこの地に骨を埋める自分になぞらえ
道君首名公の奥底に潜む心情を隠しながらちらりと晒しての歌と思うと 
無念の念かあるいは諦念なのか、その心情を思い
菅公はこの歌に涙したのではないでしょうか。
ああ悲しいかな講談社学術文庫に翻訳を出した江口 孝夫は
この道君首名公の歌を「荘子」の第十七篇「秋水」を安易に引用した歌と考を述べるが
魚の気持ちが分からない恵子と同じく江口 孝夫は道君首名公の詩を理解出来ないでいる。

20060902 記
奈良の大安寺に関してであるが
701 大宝1 6/01 正七位下の下道君首名に僧尼令を大安寺で説明させる〔続日本紀〕とある。
この大安寺は日本書紀では大官大寺 続日本紀では大安寺と呼ばれている。
奈良四大寺のひとつである。
律令制定の中で僧尼道士を規制する法の説明を道君首名公はこの大安寺で行っている。
道氏自身が末松に大規模な私寺を持つ豪族であることが関与していたのであろうか?
さてこの大安寺について梅原猛の「隠された十字架」によると
895年(寛平七年)に菅原道真が「大安寺縁起」を編纂しているらしい。
空海に虚空蔵求聞持法を授けたのは大安寺の勤操もしくは戒明といわれている。
(空海の入定は835年(承和2年)3月21日 62歳となっている。)
道君首名と菅原道真 空海にはやはり深いつながりを感じる。



道君首名資料

明治時代の教科書の題材として道君首名公が出ている。

高等小学修身 第1学年教科書 八尾編輯所編他 八尾書店 明25.10


日本の偉人伝の中に道君首名公が紹介されている。
中身については 続日本紀の道君首名公記載部分と懐風藻選歌である。


前賢故実  菊池容斎(武保)著 郁文舎 明36.7

1712年(正徳2年)大阪の医師寺島良安により編集出版された日本の類書=百科事典にも
道君首名公は記載されている。

和漢三才図会 道君首名








      

       

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