熊本霊ラインと中央構造線


整備中

熊本霊ラインと中央構造線については
「熊本霊ラインと弘法大師 空海」
http://www1.bbiq.jp/sukunahikona/kuukai.htm
http://reyline.web.fc2.com/kuukai.htm
の考察で一部紹介したが
さらに項を設けて追求したいと思う。

中央構造線そのものの知識については
google検索でいくつも出るのでそれに目を通していただきたい。
例えば 以下等のホームページが参考になる。
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm


   Wikipedia 中央構造線より




写真を見ていただけば分かるように九州では阿蘇の南側を通るラインの大分_熊本構造線
北を通るラインの
臼杵_八代構造線構造線の2本の構造線が中央構造線の候補になり
この北側の構造線は始まり(終わり)が熊本霊ラインに重なり阿蘇の国造神社側を回って大分に向かっている。
また南側の構造線は八代の妙見宮から阿蘇の幣立神社を回って大分に向かっている。

筆者は地科学的レイラインを霊的結界として作り上げた物を霊ライン
と呼ぶと定義したが
この構造線は霊的エネルギーのバックボーンとなるものだと判断している。
それは古代においてはコントロールされない荒ぶる自然エネルギーであった。
熊本霊ラインのように明確な目的とは別にこの中央構造線上には
霊的ポイントとしていくつもの神社等が存在する。
直線としての加工されたレイラインである熊本霊ラインとこの構造線が重なるのは
御坊山から熊本城までと短いがそれだけのものでなく実は密接な繋がりがあると感じられる。

九州の大分から四国を抜け諏訪に続く中央構造線上の断層には
空海の足跡が色濃く残る霊的磁場が存在すると考えられる。

この足跡を含めて茨城県の酒列磯前神社までを調査したがその成果の一部を報告する。

もともと
大分_熊本構造線と臼杵_八代構造線とに同じ霊的背景が無ければ
熊本霊ライン調査記で中央構造線がらみの報告をするつもりは無かったが、
八代の調査でこの二つの流れに興味深い繋がりが分かった。

まず霊ラインはただ神社仏閣が直線に並んだり夏至の太陽線に向かえばいいというような
単純なものではなさそうである。
そこに
「天地人」の三つの象が揃ってこそ大いなる機能が働く。
「天」とは天空から見ての狂いの無い夏至や星座方向への直線性である。
「地」とは龍の氣とも云われる断層や水脈、河川の大地を流れるエネルギーである。
「人」とはそのライン上の山頂や経絡のポイント上の神社仏閣などで執り行われる神霊祭祀である。
この三つが揃った時に神霊的結界が結ばれ人の思いが天と地とに届く。

「熊本霊ライン数値関係」で検証したが、「天」に関しては夏至方向に向かっていたラインを加藤清正が
京都の二条城あるいは京都御所または糺の森方向に造り替えたと考えている。
それゆえに国土地理院の地図上で結んだ山頂頂点が自然ではありえない程に完全に直線になるのだろう。
「地」に関してはもともとこの五山は中央構造線上というだけでなく長さ14kmにわたる立田山活断層上に位置する。
1889年(明治22年)に起こった熊本地震(M=6.3)は立田山断層起因と云われている。
また1854年(安政元年)の肥後大地震 
1778年(安永7年)と1769年(明和6年)の肥後川尻大地震ほか
18世紀には 1723年(亨保8年)1707年(宝永4年)1706年(宝永3年)と5回の大地震の記録がある。
17世紀にも 1695年(元禄8年)1665年(寛文2年)1661年(寛文元年)1650年(寛永3年)1625年(寛永2年) と5回の記録
16世紀の1507年(永正4年)の熊本地震もこの活断層起因の可能性がある。
熊本市は地下水が豊富で砥川溶岩層に沿って水脈が広がるがこのレイラインの地下には地下水脈もある。
さらに「googleで観る熊本霊ライン 熊本市街」を観て頂きたいが、國龍神を祭る立田阿蘇三宮神社から
御坊山小島阿蘇神社に向かって流れる白川はまるで龍のうねりのようである。
この白川は太古より暴れ氾濫を繰り返してきたがその鎮守のために立田阿蘇三宮神社は建てられたのではないかと思う。
熊本霊ラインは活断層 地下水脈 そして白川の流れという三つの「地」のエネルギーを集結しそれに
金峰山からの荒ぶる氣までもが流れ込んでいる。
道君首名公はこの金峰山からの氣をコントロールするために味生池を造り加減したが
それを加藤清正は取り払い独自の防衛ラインとしたようだ。
「人」に関してはこの五山は聖地として現代までストーンサークルに始まり 妙見 観音 天台宗池辺寺 法相宗来迎院  
真言宗独鈷山 阿蘇神社 天子宮 稲荷神社 聖徳太子堂 祇園信仰 日本山妙法寺仏舎利塔と
数々の神社仏閣が建てられており深い祈りの歴史を持っている。
熊本霊ラインは発信用のアンテナみたいなもので「人」の祈りは前後の山が導波器と反射器の役割をはたし
直線的に増幅され指向性を持って発信されている。



熊本霊ラインと中央構造線は四国以降どんどん離れ,中央構造線は南にずれていく。
ところが中央構造線は志摩半島通過後東北に向きを変えて北に上りだし
諏訪で熊本霊ラインと中央構造線は再び交わる。
この諏訪は霊ラインの考察上も中央構造線の考察上も
また阿蘇神社の祭祀についての考察上も重要な拠点となっている。
まだ検証中ではあるがもともとの夏至のレイラインでは下諏訪に向かい
現在の霊ラインは上諏訪方面になっている。
清正公の霊ライン構築は京都方面への加工であり遠くても比叡までであろうと考えると
ここではもともとの夏至方向のレイライン方向である下諏訪方面を検証していくことが重要となる。

そして中央構造線 熊本のもともとのレイライン 八代の妙見 阿蘇の健磐龍命というキーワードを
もとに考察していくとまた一つの繋がりが見えてくる。


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八代には九州三大祭といわれる妙見祭という祭りがある。
この祭りの特徴として神幸行列にガメの愛称で知られる「亀蛇(キダ)」という出し物が出る。
そしてそのガメが砥崎(とさき)の河原の水の中で暴れる演舞がある。
この亀蛇は、今からおおよそ1300年前の700年ごろに
中国から妙見神がこの亀蛇に乗って八代に来たという伝承を元に作られている。
現在の亀蛇は首が長い亀のようだが原型は玄武ともいわれている。
この神は妙見神として祀られそれが今の八代宮である。


この八代妙見神社の200m東の山の斜面に霊符神社がある。
この神社が全国に広がる鎮宅霊符神社の基社といわれている。
この鎮宅霊符神社の謂われは推古女帝の時代に百済の聖明王第三ノ御子の琳聖太子によって、
熊本県の八代の神宮寺に鎮宅七十ニ霊符が伝えられたのが始まりといわれている。


鎮宅霊符神と妙見神 この関係が今ひとつ読めない。
ただ伝承の時代が似通っているし
なんらかの繋がりがあると考えるのが自然と思える。
妙見信仰は、この鎮宅霊符神の信仰と混じりながら広がっていったが
それの根元が八代にあると筆者は思っている。
後世に組み合わされたのか判別しかねるが北辰妙見鎮宅霊符神咒法というものが存在している。
仮に百済の琳聖太子が鎮宅霊符を持ち込んだとした場合、
道教思想として妙見信仰も広めたということであろうか?

さて空海の独鈷伝説が残る熊本霊ラインの独鈷山であるが
もとは妙観山(みょうけんざん)と呼ばれていたことが分かっている。
頂上では観音が祭られていたと云われるが、
八代と同じ妙見信仰があったものと考えられる。
とすると八代に水神として竜王神社があるように独鈷山に龍も祀られていたはずだ。
そしてこのふもとに道君首名公が味生池を作った。
当然龍は喜んで水を住処にするだろうが、
その後妙見信仰が廃れたのかこの龍は悪龍に貶められてしまう。
京より呼ばれた僧の真澄は池辺寺を建立しこの悪龍を独鈷山中の八王子神社に封じ込めてしまう。
池辺寺は功徳池辺寺独鈷山龍池院とも呼ばれている。
龍は改心し八王子神社より麓には下りないと約束したという伝承がある。
筆者の感応によるとこの八王子神社は実は八大龍王神社の事である。
この独鈷山龍池院の名を見る限りこの寺社の守り神になったのかもしれない。

※八代には龍王神社だけでなくてもともと浅井の津と呼ばれていた浜に
八大竜王を祀る八王社が存在しているという情報を得た。
この八王社は明治になり、浅井神社と改称されている。
この神社の由緒はこの地に涌水があり
妙見神がここで禊でから上陸したという伝承に基づいているとのこと。


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中央構造線の二つの候補で共に妙見信仰があったということは
非常に重要なことを示唆しているように思える。
また臼杵_八代構造線構造線上にあるといわれる幣立宮にも
八大竜王と妙見神が祀られている。
つまり妙見信仰の広がりにこの中央構造線が関与しているように思える。




資料

史記の天官誌に北方に玄武在りと記載されており
後漢書には玄武は北方の神の亀蛇の合体也、またこの神は水神也とある。
文選の註には亀蛇と交わるを玄武というとある。
朱子語類には、玄は亀 武は蛇とあり、元は虚宿危宿星の形と同形で北方を名づけて玄武七星と云うとある。

宋の名臣言行録によると、寧州にて原魯道士が真武の中より蛇を出した。
そしてその蛇を原魯は笏(シャク)でもって
撃ち殺した
すると目深・手長・早足の三人が現れた。

三人は明州の津より、亀蛇(きだ)に乗りて、
肥後国八代郡土北郷白木山八千把村の竹原の津に着いた。

669年白鳳九年(庚辰)より三年を経て益城郡小熊野郷千代松ヵ峰に移る。
ここを白木平という。
90年を経て771年寶亀二年(辛亥)八代郡横嶽に移る。
是が上宮である。
目深・手長・早足を葬る地を三寶嶽と云う。

筆者の推察では、玄武は亀とそれに巻きつく蛇であるが、
八代の祭りのガメは亀でありその上に乗る目深・手長・早足が蛇であり
この
亀と蛇を合わせて初めて亀蛇(キダ)=玄武というのだと思う。

さて目深・手長・早足の三人についてだが
八代海の海浦に鬼ケ城と呼ばれる低山があって、
地図を眺めていたら
目深は目赤で雉、手長は猿で早足は犬で桃太郎の伝承に繋がるのではないかとも感じた。
鬼をなんとするのか、難しいところではあるが
意外と面白い展開となるかもしれない。

また八代の構造線と熊本の構造線は大分で交わり諏訪に向かい熊本霊ラインも諏訪に向かうというように
諏訪は重要な意味を持っているが、この諏訪には足長神社 手長神社がある。
祭神は脚摩乳(足名椎)と手摩乳(手名椎)となっていて奇稲田姫の父母となる。
蘇我氏考察でも述べているが
この足名椎は大山津見神の子であるが、建速須佐之男命により
稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けられている。

つまり須賀=蘇我に繋がるが、八代の妙見信仰と三光の紋は蘇我氏由来だと考えると
やはりこの目深 手長 足早も蘇我に繋がるのかもしれない。








霊ライン参考地図 リンク
1 国土地理院地図で観る熊本霊ライン 御坊山→城山2峰→独鈷山→万日山→花岡山 852KB
2 googleで観る熊本霊ライン 日本地図
3 googleで観る熊本霊ライン 熊本市街
4 googleで観る熊本霊ライン 御坊山(小島阿蘇神)社基点図
5 googleで観る熊本霊ライン 加藤清正が創りあげた熊本城
6 立田阿蘇三宮神社の森はレイライン上に位置する事が分かる。 祭神は國龍神。
7 加藤清正が作り上げた熊本霊ライン延長先 京都御所 糺の森の河の合流部






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