道君首名公と小天少彦名神社調査記



道君首名公と小天少彦名神社調査記



味噌天神の祭神について少彦名神と確信が持てたので
googleで道君首名と少彦名神で検索していたら
「地域発ふるさとの自然と文化」という熊本県のホームページで
「天子宮の火祭り」というのを偶然見つけることが出来た。
熊本県玉名郡天水町小天に小天少彦名神社というのがあり
ここで道君首名公の威徳をしのび、
毎年10月15日の夕方から火祭りが行われているというのだ。
今まで道君首名で検索した時には見つけることが出来なかったホームページだ。
これによると道君首名公が筑紫に赴任してすぐより疫病が蔓延して
それを収めるべく少彦名神と大國主命をこの地で七日七晩祭祀して
その霊験により疫病を食い止めたということらしい。
その祈願中に火渡りを道君首名公が行ったらしく
それが現在においてもめんめんと「天子宮の火祭り」として
受け継がれているということだ。
道君首名公の威徳をしのぶ祭りが現在も残っていると知り嬉しいかぎりである。



天子宮の火祭り記載記事



早速 小天少彦名神社(天子宮)に参拝してきた。
まず非常に氣のいい神社だと思った。
天社宮と天子宮との名前が似ているが
元は天社宮は天子宮と呼ばれていたような気がする。
参拝していたら火祭りを管理をされている組長さんのような方に呼ばれて
由緒書きと火祭り行事の作法書を渡された。
当時の道君首名公の苦慮と神霊との交わりの真摯さが良く分かる
いい内容であったので、この由緒書きを無断ではあるが添付する。
道君首名公の民を思う気持ちと
神霊に対する純真なる熱意が神霊を動かすという真理に感動を覚える。
またそれ以来綿々と祈願の火祭り神事が1300年の永きに渡り
この地の氏子に継続してきていることも頭が下がる思いである。




天子宮由緒書き

手書き由緒書き

火の祭り祭典式次第




※ バージョン6.0以降でないと表示精度が悪く読みにくいかと思います。


2007年04月に天子宮参拝に行った際 由緒書きの内容が気になり
読んでみると今まで知らなかった情報が記載されていることに気づいた。
それでその内容を紹介する。

 由緒石碑の解読内容



和銅六年 (七百十三年 元明天皇の時代)の秋の末から肥後国筑後国に疫病流行し人民死亡する者が多く
時の国司道君首名は仁愛の心深くこれを憂へ清地を選んで忌屋を建て
十一月朔日より其屋に忌こもり柊の枝を刺し立て 
少彦名神の神木とし 椎の枝を刺し立て大名持命の神木とし 
即ち 二神を招奉じて悪病消除 人民安全の御祈願成し給うた。 
又同朔日 大木小木を伐出させ高さ一丈 四方十丈を忌屋の前に積み立て置き
七日の暮れ方になって火を付けて焼き上げ終夜殊更に二神を請い給い 
二神に病を治め給い 大神達への祷事叶え給え 若し 願い事叶わざるには火も焼く事なけん。 
若し祈ること叶わずは此の火に焼けて「死なん」と大幣を取って
その火中を渡り給うこと三度 その時傍に侍る塩見常知も其の後に従い同じく三度渡ったが
二人共に足の毛だに焼けなかった故に首名は深く神徳を感じ二本の神木の前に拝伏し給ふた。 
二神常知に託して宣り給うに「汝が祈心甚だよし故に忽ち病を治め その験には汝二柱の神を祭祀し、木枝葉茂り栄へしめん。 
我二神長く此の地に居んで宮柱太敷立て祭事怠らず祀れば祈ること悉く叶えん」と言い終って神は常知を離れ給う。
首名が驚いて頭を揚げると先の神木一丈余りの大木となって居ったのでますます神徳の貴さを知り崇敬された。
翌八日 人を分かちて病人を調べ給うと数万人の病 夢の覚めるが如く治り
起き出して国主の仁心を歓ぶ声巻き起こって即ち其の月から斧初有って出雲大神の國を雛形として
西向かいに大社の三分に御社建立し翌年八月成就したのでその月の七日初めて新宮に祭り給ふ。
又出雲の地形を思し召して后の高山に熊野宮を勧請し熊野嶽と名付け玉ひ 
更に翌年 蝗虫(いなご)多生したる故 大歳神を勧請し竹を刺立て神竹となし 
前二神に合せ祭給へ豊年となったから 其冬北宮の左坐に安置し奉じ給ふ。
其の後 年を経て承和七年(八四0年 五十四代仁明天皇時代)の冬
肥後國又 疫病流行し神社も 大破したので肥後国主菊池麿 
古これを考へ 自ら来って此の神社に深く祷られたので悪病速くに治った。
國主は神徳の新たなるを感じて神社を修復し 田 三十町 封戸三十戸を更に寄進せられ正月七日の祭りを始められた。
又鎮西八郎為朝 仁平年中(一一五一年 七十六代近衛天皇の時代)鉄の鉾八を奉納し勝軍を祈った為朝 
賊兵の囲の中から不思議に免ることが出来たので刀や弓等を奉納した。
その後武士互いに地を争ったが
応仁元年(一四六七年一○三代後土御門天皇 足利八代将軍義政時代)十二月二十日夜賊兵神宝を奪はんと社に火を放って
神宝をはじめ将胤が家迄 忽 灰燼に帰した。
父将武を初め上官 塩見常吉 上土井 安村 大久保忠一 来神芳風 塩見常信 下官 立川穂椎 等戦死し 
数百年の神社も断絶した。
其の後領主 田尻惟富 神社の跡に居宅を建てて
永正四年(一五○七年一○四代後柏原天皇 足利十一代義澄時代)今の社地に拝殿を建立 
大いに信仰し松山七十町尾田 立花部田見村の中にて祭田二町を寄進し
年久しく絶えたるを興し古の大祭の神事を取り行わせられた。
然るに其の後世の変遷と共に社財は皆無となって僅かに村費を以って祭典を行い
明治三十三年町村祭典変更に依り十月十五日を祭日に改められた。
其の間 偶々 大東亜戦争は昭和二十年八月十五日無条件降伏をして敗戦国となって
祭典費の町村支出を禁ぜられたるをもって時の町長 坂本達也は之を放任せんが
愈々(いよいよ)社荒廃必至と思料 各区に宮総代制を設け此の機関により氏子より社費を調達し
之が維持に努め今日に至れり。         
慈に記念碑を建立するに當り 天子宮の来歴を世人に紹介し且つ後世に傅ふる為概要を記述す。

        昭和四十一年十二月 天水町 町議会  田代 明 謹書



※ 皇歴は西暦に変換して表示してあります。
※ 斧初祭り 宮大工さんの仕事始め
※ 菊池麿は藤原乙麻呂の孫
※ 鎮西八郎為朝は阿蘇大宮司忠国の聟となり雁回山に住いす。
※ 応仁元年 応仁の乱により諸国おおいに乱れる。



     掲示板BBS

 ご質問やアドバイスはメールでお願いします    



inserted by FC2 system