聖徳太子 考


整備中



聖徳太子が個人名なのか、あるいはその功績が複数人のものであるのか
仏法擁護なのかミトラ教由来の弥勒菩薩(マイトレーヤ)信仰を持つのか
蘇我系なのかあるいは秦氏との関係はどうだったのかということは
十分考慮の必要がある。
しかしながら筆者にとって通説の聖徳太子像に
非常に惹かれるものがあるのも事実。


「和を以って尊しとなす。」というのは、
解釈に無限の含みがあります。
付和雷同社会の構築ではないかとのお叱りもある。
しかし十五条文を吟味するとこの和というのは
私心を捨てることにあるということ。
中でも恨みを捨てるということにあるということが分かる。
そして十条に述べられていることであるが
自分としては正しいと信じることも一人よがりであれば
それを捨てて同調せよとある。
神からみれば所詮自分は凡夫でしかない。
真に正しい事柄であると思うなら最終章の十七条で記載されている通り
多数の者で良く議論して決めることを薦めている。

私見によればこの時七世紀初頭の日本は中国侵略の危機に面していて
国をまとめ上げる必要性がありそのためには
蘇我氏や物部氏他豪族間の争いごとや皇族の権力争いを
矛に収めて一致団結することが急務だったと考えられる。

この改革は無事成し遂げられ遣隋使を派遣し
「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。恙無きや」
と記した国書を送るまでになっている。

今の世界情勢を鑑みても結局世界平和の道は
「和を以って尊しとなす。」という思想以外にはない。
これは聖徳太子の預言であると思う。




十七条憲法訳文

一、和をもって尊しとする。
和する事を貴い目標として道理に逆らわない事を宗としなさい。
人には皆それぞれの考えがあるが道理に通じている人は少ない。
それで君子や父に従わない者があり近隣とも意見が違う。
しかし、君子が和して臣下の仲が良いと事を議論するにいい結論が出る。
それで事の道理は自然にゆきわたり何事も成功しよう。

二、篤く三宝を敬え。
心から三宝を敬いなさい。三宝とは仏法僧のことです。
生老病死の苦しみから救うのはどこの国であれ極宗の仏教です。
どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは救われない。
人間に悪人は少ない。良く教えれば仏教に従う。
仏教に帰依しないで何で曲がった心を正すことが出来ようか。

※三宝について改竄の可能性あり。 
十七条の憲法について記した原本は残っていない。
個人的な社会背景を元に考察すると三宝とは儒教・仏教・道教の三宝と取れる。
仏教は一つの観念であり儒教 道教と相容れないものではなかったと思われる。
従ってこの憲法の骨格にも儒教の影響等が見られる。
とても仏教立国(国家仏教)を目指していたとは思えない。
太子の仏教の師は高句麗の僧 彗慈(えじ)
儒教の師は百済系と思われる覚か(加の下が可)
道教についてはこの推古朝にどの程度道教思想が伝わっていたのか実は不明。
天武朝での道教の影響は明白であり
神仙思想により紫宮に住むという天皇大帝になぞらえて天皇名を用いたり
姓の第一を真人と定めたりしているが聖徳太子と道教を結びつけるものが無い。
しかしながら仏教儒教が伝わっていたとすれば
当然道教思想も伝わっていると仮定したい。
ただ道教のかわりに神道としてもいいかもしれない。


三、詔を承りては必ず謹め。
君子の命令を受けたら必ず恭しくしなさい。
君子は天なり。臣下は地なり。天は地を覆って地は天を載せる。
四季の自然の法則により万物の霊気がゆきわたる。
地が天をくつがえすことを望めば道理が破れる。
それで天子である君子の言葉に臣下は従う。
君子が道理を行えば臣下はなびく。
だから君子の命令を受けたら必ず注意深くしなさい。
恭しくしなければ自然に自滅します。

四、群卿百寮、礼を以って本とせよ。
群卿百官は真心を持って職務を行うを基本としなさい。
民衆を治める基本は必ず真心を持って職務を行う事です。
君子が真心を持って政治を行わなければ臣下は和することがない。
臣下が真心を持って職務を行わなければ必ず道徳に反する事がある。
それで群臣が真心を持って行う事あればの臣下の上下の行いが乱れる事が無い。
百姓が真心を持って農事を行えば国家も自然に治まります。

五、飲食を貪る事を絶ち、私欲を捨てて訴訟を公正に行いなさい。
百姓の訴えは。一日に千件あります。
一日でさえそうなのに永年にわたり訴訟を治める者が利益を得る事を常にしている。
賄賂を貰っては裁きをゆるす。
すなわち財産を有する者の訴訟は石を水に投げるように易しい。
貧乏な者の訴訟は水を石に投げるように難しい。
このように、貧乏な民衆は頼りにするものが無い。
臣下の道徳もここに欠けている。

六、悪行を懲らしめて善行を勧めるは昔からの良い手本です。
これで人の善行が隠れる事が無い。悪行を見たら必ず正しなさい。
へつらい欺く者は国家を覆す鋭い器です。人民をほろぼす鋭い釼です。
またへつらい媚びる者は君子に臣下の過ちを良くつげる。
臣下に逢うと君子の失敗をそしる。
この様な人は君子に忠誠が無く民衆に対して慈しみの心が無い。
これは国が大きく乱れる原因です。

七、人は各々職掌に任命されている。道徳に背かない様にしなさい。
賢く才知が有る人が任官する時には褒め称える声が沸き起こる。
邪悪の者が官に任命されていると禍や乱れがしばしば起こる。
生まれながらに道理を知る者は少ない。よく思考していけば道理に通じた者となる。
事を行うに大事、小事の区別は無い。適任者を任命すれば必ず治まる。
行う期間に至急ものんびりも無い。賢者にめぐり合うと自然にゆとりが有る。
これにより国家は永久に続く。国家の最も重要な守り神が危うくなる事は無い。
だから昔の聖王は官のために賢者を求めて人のために官を求めないのである。

八、群卿百寮は朝早く出仕して遅く退出しなさい。
公の事は念入りにしっかりやらなければならないから仕事はその日に終わる事が難しい。
それで遅く出仕しては緊急の用に間に合わない。早く退出すれば必ず仕事は終らない。

九、信は是義の本なり。
誠実であることは人の踏み行う正しい道筋です。仕事は誠実に行いなさい。
善悪の裁きに対しては誠実である事が肝心です。
公家衆ともに誠実であれば。何事も出来ないものは無い。
群臣に誠実さが無ければ。総ての仕事に失敗する。

十、いきどおりを絶ち、怒りを捨てて人が自分と意見が違うのを怒ってはいけない。
人には皆それぞれの心が有ります。各人思いとらわれるところが有る。
他人が良しとするところが自分には非であり、自分が良しとするところが他人には非であるものである。
自分が必ずしも物事の道理に通じた者では無く他人も必ずしも愚か者では無い。
共に凡夫なばかりです。それで是非の理を誰が決定できようか。
お互いに道理に通じた者でもあり愚か者でもある。
まるで指輪に端が無いように同じである。
それで他人が怒る事が有ったら自分に過ちが無いかと心配しなさい。
自分一人理解したとしても皆に合わせて同じ様に行動しなさい。

十一、手柄と過ちをはっきり見ぬいて罰と賞とをきちんと的を得たものにしなさい。
日頃は手柄でもないのに賞を与え、罪も無いのに罰している。
仕事に就いている群卿は賞と罰を明瞭にしなさい。

十二、国司国造は、自分のために百姓から取り立ててはならない。
国に二人の君子無し。民衆に二人の主君無し。
国中の総ての民衆は王を主君としている。赴任する役所の官司は皆な王の臣下です。
何で敢えて公と同時に自分の為に租税を割り当てて取り立てる必要がありますか。

※やはり国司国造という単語をこの推古朝にもってくるのは慎重でありたい。
後世の加筆であろうかと思う。
天武朝ではある程度国司国造の骨格が出来ていたようであるが
制度としてはっきりするのは持統朝の律令施行以降ではなかろうか?
ただこの時代にも豪族の領地でない帝の直営地である県(あがた)はあったはずである。

十三、諸々の仕事に任命された役人は共に職務として担当する役目をわきまえなさい。
或る人は病気になり、或る人は遠國に使いとして派遣されて仕事から除かれている事がある。
そうであれば役目を覚えた日から以前から知っているように調和しなさい。
あずかり知らないといって公の務めを妨げてはいけない。

十四、公家百官は嫉妬する事があってはならない。自分が人を嫉めば人も自分を嫉む。
嫉妬の悩みの弊害はその限度が無い。
だから知識が自分より勝っている人を喜ばない。才能が自分より優れた人を嫉妬する。
ここに五百年にしてようやく賢者に出会えたのである。
千年でも一人の聖人に会うのは難しい。
聖人賢人を得られなければ如何して国を治められようか。

十五、私心を捨て公務に従うは、臣下としての道徳です。
誰でも私心あるところには恨みがあります。
恨みがあれば必ず皆の心が一つでなくなる。心が一つでなければ私心が公務を妨げる事になる。
私情を挟み無念さが募ると制度に従わず法を破る事になる。
だから最初の条文に述べた君子も臣下も和するとはこの情より出でたものである。

十六、民衆を使役するに季節を選ぶは昔からの良い手本です。
冬には暇が有るので民衆を使役しなさい。春から秋までは農業、養蚕の時期です。民衆を使役してはいけない。
農業をしないで何を食べますか。養蚕をしないで何を着ますか。

十七、事を一人で決定してはいけない。必ず多数の者で良く議論しなさい。
小事は簡単ですから必ずしも皆に相談する必要は無いが、
大事を決定するときには過ちが有ると疑う様にしなさい。
それゆえお互いに相談し論議すれば道理を得るであろう。



日本で最初に仏教を擁護したのは
蘇我氏であるのは間違いないと思える。
蘇我は百済系の渡来人であろうから百済仏教には
親近感があったのだろうと思う。

それに対して神道の神祇を祭祀する物部と中臣が
猛烈に反対するのは当然であろう。

ところで渡来人である秦氏の秦造河勝は
聖徳太子から仏像を賜り広隆寺に祭る。
国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像あるいは
泣き弥勒と呼ばれる宝髻(ほうけい)弥勒である。
以前はこの二体の国宝仏は百済仏といわれていたが
現在は新羅仏ということが分かっている。
韓国の国宝の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像は
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に非常に似ている。
ところでこの弥勒菩薩であるがこれは仏教由来ではない。
当時の朝鮮新羅の弥勒菩薩は梵語名Maitreya(マイトレイヤー・慈悲)の
音訳
であると考えられる。
新羅の花郎「ファラン」が祭祀するマイトレーヤーの像がこの弥勒菩薩である。
当然秦氏はそれを知っていたわけであり
だからこそこの像を聖徳太子から貰い受け祀ったのである。
秦氏とは不思議な渡来系技術集団で秘密が多いけど
不思議と神道に溶け込んで木島坐天照御魂神社(蚕の社)を始め
伏見稲荷社 賀茂神社 松尾神社といくつもの神社を作っているというか
あるいは乗っ取りしている。      このことは別途秦氏篇作成予定
秦氏が始めた神道は
神道の形をとりながらも当時の日本の祖神とは別の神を祭祀している。
同様に広隆寺に伝わる牛祭りの摩多羅神(またら神)等みても
仏教としての受け取り方を秦氏がしていないのは明らかだと思う。  
(異論もあるとは思いますが)


最も神道の基本は器であり道であり祭る神の名称のみに拘っていない。
一般的に神はなかなか神名を明らかにしない。
にもかかわらず日本人はそこにいます神に感応する民族なのだ。
西行法師が伊勢で詠った有名な句がある。
なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
そして正神界の神霊なのか邪神かを本能的に審神している。
そういう意味で神道とは茶道みたいなものだ。
もてなしの手順作法は厳格だけど
だからといってもてなすためだけのテクニックでは無い。
茶道はもてなす客のためのみにあるわけでなく
接待する側の興のみにあるわけでもなく
それぞれの立場において三畳の空間に和という世界観を作り出す
タオである。
同様に神道の本質も八百万の神々と自分の御魂との間に
亜空間的な和を作る作法であるといえる。
御成敗式目に「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事右、
神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。
然ればすなはち恒例の祭祀陵夷を致さず、如在の礼奠怠慢せしむるなかれ。」
とはよく言ったものである。
ここで茶道を持ち出したのは、もともとの茶道は村田珠光が祖であろうが
禅的世界観とは茶道の色付けではあるけれど本質では無い。
茶道そのものにより禅的悟りを得られるものでもない。
侘び(わび)寂(さび)の精神を味わうことは禅的な風景ではあるが、
禅の修業とは関係しない。因果とは因から果が生じるのであり
侘び寂びから禅的悟りを得るわけではない。
しかしながら茶道とはやはり道である。
茶道とは強烈な個々の個性を三畳の空間にてお手前という形で披露しながら
和を以って尊しとなすことを体験する場なのである。
そういう意味で茶道こそ聖徳太子のご意向を最もよく伝えていると思う。

※タオとは、 森羅万象が司る宇宙の秩序や法則を意味する道のこと。

ところでついでに華道についても述べると これは祖は池坊専務であろう。
小野妹子が出家して専務と名乗り聖徳太子の御精霊を慰める立華が
華道に発展したものである。
共に聖徳太子の精神を継いでいると思う。


問題は聖徳太子がこの弥勒菩薩をどう認識していたかということだ。
筆者は聖徳太子はこのマイトレーヤー信仰が
ミトラ教(ミトラス教)によるものであることを聖徳太子も知っていたと仮想したい。
日本人はいろんなものを同化して取り込んでいくが
その礎となったのが聖徳太子であると信じたい。
そして三宝とは儒教 仏教 道教であると思う。
天皇が試しに蘇我に仏像を祭らせたのと同様に
聖徳太子は秦氏にミトラス教あるいは拝火教を祀らせたのかもしれない。


20060328追加記載

弥勒菩薩=マイトレーヤであり
マイトレーヤに対する信仰は仏教でないのか?という指摘がありました。

確かに筆者の思い込みによる説明で言葉足らずでしたので
もう少し詳細に記載させていただきます。

聖徳太子が説いたとする三経義疏であるが
伝わるものが聖徳太子由来のものであるかという議論はさけますが
聖徳太子がそれらの真髄を十分理解していたとして話したい。

釈迦の教えの真髄と仏教の真髄は同じであるとすると
三法印に集約出来る。
諸行無常 常なるものはない。全ては壊れ朽ち果てていく。
諸法無我 全てに実体がない。自我というものにも実体は無い
涅槃寂静 さとりに至る世界こそ唯一の救いである

悟りにいたる世界とは何かというと
阿弥陀仏の西方極楽浄土
薬師如来の東方瑠璃光浄土
観音菩薩 南方の彼方の補陀落山
弥勒菩薩の兜率天などである。

聖道門派は自力で悟りに至り
浄土門派は他力で仏により導かれるという違いはあるが
求めるところは同じである。
さて広隆寺に伝わる弥勒菩薩であるが
もちろん仏教的に常識的にいえば弥勒菩薩の救いにより
悟りに至ろうとするものであろう。
聖徳太子の高邁な思想を
私が講じるのは不可能ですが
あえて聖徳太子の感じている仏教を説明しようとすると
それは釈迦がいうところの仏教の本質を
完全に捉えていたということに尽きるかと思う。
もともと釈迦はカーストの否定と難行苦行を否定し
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静の三法印を元に
四苦八苦(一切皆苦)を超える法を教えている。
そして真諦は無無明を知ることと思う。
つまりそこにあるものは、知識が先で悟りが有るのではなく
悟りは悟りとして人の本性として備わっているということ
の理解になろうかと思う。
そしてそこに至る道である智慧を説いたわけである。

ただそれを聖徳太子は理解した上で
その教えと別なものを聖徳太子は
弥勒菩薩に感じていたのではないか
ということが私が言いたい本質である。

ミトラ教のミトラはMitra Mithra と書くらしく
サンスクリット語のマイトレーヤはMaitreya。
弥勒= ミロクは ミロ Mi-leとなる。

ミトラ→マイトレーヤ→ミロクという読み方の流れではなく
ミトラから別々にマイトレーヤとミロクは派生していったように思える。
そして一方は仏教に取り込まれていきましたが
それとは別に仏教とは違うミトラ教義も存在していたのでは
ないかと感じている。
そして聖徳太子は仏教とは違うその教義にも
崇高な意義を感じて秦氏に祭祀させたのではないか?

そのミトラ教由来の教義であるが
新羅の花郎「ファラン」が信仰したものと同じとすると
聖徳太子がどういう教義と受け取ったのかだが
「青年の未来への希望と社会に対する正義感と熱意を
守る神霊がミトラ神」と受け取ったのではなかろうか。
その青年たちの仲間と神霊との間にあるものが友愛という観念であり
仏教の慈悲が空間的に上下にあるなら
ミトラ教の友愛は空間的には水平な広がりであり
これは聖徳太子が説くところの和の思想に他ならないように思える。





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