整備中
蘇我氏考察


蘇我氏考察の霊的背景

まず蘇我氏を考察するに至った理由に武内宿禰が関与していてそこから話を進めたい。
「少彦名神考察」の中の少彦名神と大彦尊で、以下のように記載している。


伊賀國阿拝郡の式内社で伊賀の一宮である敢國神社には
孝元天皇の皇子である大彦命と少彦名神が祀られている。
ところで大彦と少彦との対比であるが、
どういう繋がりがあったのか?あるいは単なる偶然か不思議である。
大國主命と少彦名神が同時代とすると大彦命はかなり時代が下がる。

しかし
孝元天皇の皇子で長男の大彦と末子の開化天皇の間に、
少名日子名建猪心命(すくなひこなたけいごころのみこと、少彦男心命) がいる。
原田常治著の上代日本正史 P84の雀部臣系図には
その名が少彦名許士尊となっている。
まさに大彦命と少彦名神が兄弟であるような記載とも感じられる。
大彦命の後胤の佐々貴山君も沙沙貴神社で少彦名神を氏神として祭祀している。
大神霊の少彦名神と対応する実在人物としての候補の一人であろう。
少彦名神を調査していていつも後ろに出てくるのが武内宿禰だが

内宿禰は第八代孝元天皇の孫とも云われているが
だとすると 武内宿禰は少名日子名建猪心命の子供である可能性がある。
神功皇后の子供の誉田別命は武内宿禰との間に出来た子供と考えているが、
そうすると神功皇后が各地で少彦名神に祈っているのも頷ける。
神功皇后の義父で誉田別命の祖父となる。
熊本市の東の外れの沼山津に少彦名神を祭祀する竹内神社があるが
この社を祭祀した人物はそのことを知っていたのだろうか?
※少名日子名建猪心命=屋主忍男武雄心命と同一人物かは不明。


武内宿禰に感応があるのは、上記のように大神霊の少彦名神と対応する実在人物としての

少彦名許士尊=少名日子名建猪心命との繋がりゆえではないかと思っていたが、
昨年2008年04月に籠神社参拝の帰りに出石温泉に入ってから、ナビを頼りに山陰の白兎神社に向かっていて
なぜか対向車も来ない狭い峠道に迷い込み、
やっと大きな道に出て、ほっとしたところにあった神社が宇倍神社だった。
夜の7時頃で導かれるままに懐中電灯を手にして参拝した。
この神社は武内宿禰を祀る神社であった。
丘の上に双履石というものがありそこで祈った際に感応があった。
そのヒントとなる言葉は出雲の「蘇我」であった。
確かに調べてみると蘇我は武内宿禰を祖とする一族となっている。

武内宿禰─石川─満智─韓子─高麗─稲目─馬子─蝦夷─入鹿


そういえば、福岡の宮地嶽神社の摂社に須賀神社があり、また金比羅宮の真須賀神社でも
「蘇我」との繋がりを感じていたことを思い出した。
出雲大社の素鵞(そが)社もそうだが、蘇我氏は素盞嗚尊に繋がる系統のようである。

しかし感応の中身は、阿蘇に
繋がる私の系統にも蘇我の血が流れているとのことであった。
思うに「蘇我」は「我よみがえる」という意味となるが、「阿蘇」も「吾よみがえる」となる。
阿蘇氏は古代の多氏の後裔で山城国宇治の国司からの流れであり、比較的近代に阿蘇の地に来ているようだ。
たぶん阿蘇という言葉は阿蘇氏が登場する以前のものということだろう。
ただ多氏(おおし)は神武天皇の子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔と言われており
神武天皇神八井耳命多氏─阿蘇氏
の系統にどう蘇我氏がからんでくるのかということになる。


建速須佐之男命が高天原から追放されて足名椎、手名椎と出会うが、
この足名椎は大山津見神の子であるが、建速須佐之男命により
稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けられている。

ここで須賀と八耳という言葉が出てくるが、
この
足名椎の子供の櫛名田比売命と建速須佐之男命の間の子である八島野命は
清之湯山主三名狭漏彦八島野命=蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)という。
つまり須賀=清=蘇我(読みはsuga)となっていて建速須佐之男命が
蘇我の養子となったように受け取られる。
また話が飛ぶが八耳は神八井耳命の系統に繋がるとすると聖徳太子も厩戸豊聰八耳皇子ことから
蘇我と同系統ということになる。
一般的にはこの須賀は建速須佐之男命が『吾れ此処に来て、我が御心“清々(スガスガ)し”』と
言った事からこの地名を須賀としたことにちなむとなっている。
しかしながら前述の通りこの地名の須賀が出雲の蘇我氏に繋がると感じている。

つまり神八井耳命蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の関係が考えられる。
実際の記紀では
大山津見神─木花之開耶姫=瓊々杵尊─火遠理尊─鵜葺草葺不合尊─神武天皇─神八井耳命と
いう系統で考えると建速須佐之男命は天照大神・大山津見神の神代に登場しているが、
地上に追放された建速須佐之男命の活躍は神八井耳命以降となりそうである。


ところでもともと建速須佐之男命は物部氏の系統になると考えていた。
物部系である石上神宮の祭神の布留─布都斯─布都─宇摩志麻治命の系統で
布都斯は建速須佐之男命と同定されている。
※正しくは布都斯魂大神=素盞嗚尊の八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名。

これらを元に考察すると建速須佐之男命は物部系の布都斯という人物であったが、
蘇我氏に婿入りし「須佐の王」となったというように読み取れる。

そして蘇我の系統としては八島野命に繋がっていき、
物部氏の系統は布都斯の息子の布都=大歳=天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊=大物主(大いなる物部の主)として
繋がっていったのではないかという気がする?
そして建速須佐之男命を中心とした蘇我氏物部氏連合軍は出雲を制圧し
大歳と八島野命は別々に勢力を広めていったのではなかろうか?


蘇我氏は勾玉と縁が深い一族で蘇我氏が勢力を無くすと同時に勾玉が作られなくなっている。
出雲の勾玉は玉造温泉として今に名を留めている。
さて三種の神器は「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「天叢雲剣」であるが
これらを各氏族に当てはめると八尺瓊勾玉=
蘇我氏 天叢雲剣=物部氏
八咫鏡=邪馬台国系の氏族に当たるのではないかと勝手に考えている。
良くわからないが鏡はもしかすると天忍日命や道臣命に繋がる
大伴氏かもしれない。
また八尺瓊勾玉を献じたのは丹波国の桑田村の甕襲(みかそ)という人物という話もある。
根拠無くそういう気がするだけだが、出雲での氏族の結束が三種の神器で、
天皇とはその氏族から輩出された司祭ではなかろうか?
だとすると天皇が祭祀していた神とは、どういう神霊だったのかという疑問がわく。



蘇我と縄文神との繋がり

出雲大社の宝物館の勾玉は翡翠硬玉製だが、このヒスイは越の国で産出したことが今では分かっている。
世界的に見ても翡翠硬玉の産地は少なくて
ビルマ(ミャンマー)のカチン州マンダレーが有名であるが中国国内では産出しない。

しかし長らく日本でヒスイが産出されることは忘れ去られていて再発見は明治になってからである。
越の国は今の北陸あたりで糸魚川市長者ケ原遺跡の発掘調査で、縄文中期の硬玉性大珠の加工跡が確認されている。
ここに非常に重要なポイントがある。
蘇我氏が勾玉と縁があると言ったが、この勾玉は縄文由来の装身具(祭祀具)である。


縄文式土器に火焔土器や遮光器土器があるが、縄文神の信仰を雄弁に語っている。
筆者は縄文神について聞きかじりの情報以上のものを持たないが
間違いなく縄文神は封印されてきた歴史を持つように感じている。
女神アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)と岐神(来名戸祖神、八衢神、塞の神)は
縄文神系と言われており、猿田彦神や白鬚神に繋がっていると思っている。

また祓戸四神の内の一神である瀬織津姫も縄文の女神と伝える人々がいる。
筆者は今のところ瀬織津姫についても見識を持っていない。
ただ同様な話がある白山菊理媛神については自分なりの信仰を持っているが、
この白山神は寛恕と和の神でありここで述べている縄文神の範囲にはない。
同様に道主貴であらせられる宗像三女神の一人である市杵嶋姫も縄文神の範囲と思っていない。
市杵嶋姫は弁財天(弁才天)に習合されることもあるが、女神アラハバキも弁才天に姿を変えて
信仰されてきたという話もある。従ってそういう意味での繋がりがあるのかもしれない。
瀬織津姫神を日本神名辞典で調べると禍津日神・八十禍津日神に比定されている。
全ての災厄の元となる神らしい。
これに対抗し穢れを払い、禍を直す神として直毘神が生まれている。
瀬織津姫神は恐れられさんざんな言われ方をされているように思えるが、
確かに封印された縄文神の性質を持つのかもしれない。

ただ筆者が今論じている縄文神とは間違いなく祟り続ける神であり
祟り神に落とされた神の事ではない。その区別は重要だと思っている。



蘇我と縄文神との繋がり

日本の神道のある部分には間違いなくミトラ教由来のマイトレーヤ信仰 、ユダヤ教、原始キリスト教の
理念が混じりこんでいるし、もちろん道教、仏教、儒教の理念も混在している。 

神道とは器であるからそれは大きな問題とはならないが、それゆえに一神教にならずにいると思っていた。

数多くの神々を祀る古代エジプトでも太陽神ラーを信仰する者、別の太陽神アメンを信仰する者と
オリオン星を信仰する者、シリウス星を信仰する者の対立があっていて
多神教でありながら各自は一神教を志向している。
人類本来の本能は、一神教を志向するように感じている。
やはり日本だけが特殊であるような認識を持つに至っている。
日本には八百万の神々を各所に配置し、ありがたい神様として名を問わない信仰形態がある。
例えば西行法師の「西行法師家集」に載る
『なにごとのおわしますかは知らなねども、かたじけなさに涙こぼるる』という歌であるが
これは伊勢神宮に詣でた時の歌であるから伊勢の神様がいることは分かっていながらの歌である。
また昔話の「大工と鬼六」でも名前を当てられて鬼は卒倒して消えている。
本名(諡)は軽々しく人に教えないまた呼ばないのは当たり前でだから諡を「忌み名」といっている。
特に神霊に関しては、庶民は詮索せずに海の神様、山の神様、水の神様、火の神様と呼ぶのが慣例となっている。
本来今の私が行っている作業のように神名を明らかにして役割を見極めるのは小賢しいことなのだ。
神々を総括してありがたい存在として、八百万の神々とする日本の多神教は、
原始的どころかその維持に古来から意図的な配慮が成されている。

この原因について筆者はあることを感じている。
それはひとつの神のみを信仰しそれを一神教として広めようとすると祟られるということだ。
では何に祟られるのか?誰が祟られたというのか?

もちろん祟るのは封印された神である。

例えばキリスト教は教科書的には、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたということになっている。
布教と植民地支配は両輪で彼ザビエルは
「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。」と報告している。
同様にペドロ・デ・ラ・クルスも1599年2月25日にローマのイエズス会本部ジェズ教会に宛てた文章に
「軍隊を送る前に,キリスト教の領主の土地を艦隊の基地として使用できるようにする。
このためには天草島が非常に適している。なぜならばその島は小さく、軽快な船で取り囲んで守るのが容易であり、
また艦隊の航海にとってよい位置にある。」
と報告している。
その天草で実際に布教活動をしたのはイエズス会のルイス・デ・アルメイダ神父であり、
この布教活動が1637年12月11日に天草四郎率いる天草の乱と繋がった側面もある。
そしてこの乱では3万人以上の死者が出たが以降キリスト教は深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。
また日本に対する植民地支配策は東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、
日本よりも支那の支配を薦めており、日本は結局難を逃れている。
神霊の実在を信じないものには、これはただの歴史の流れであろうが、
筆者にとって、この天草に広まったキリスト教がなぜここまで完膚無きまで叩き潰されたのか、
その神霊界の動きが気になっている。

この天草の乱は、基本的には島原・天草一揆である。
過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害で始まった一揆であり、宗教的な戦争では無かった。
しかし数多くのキリシタンが加担していて、それがキリシタン弾圧の口実ともなっている。
歴史的には秀吉、家康によりキリスト教は禁教化されていき、それで広まらなかった訳だが、
神霊的な背景にはひとつの神のみを信仰しそれを一神教として広めようとすると祟られるという例となっている。

熊本の宇土に入ったキリシタン大名の小西行長が神社や寺院を全て破壊しまくっている事から
宇土から八代にかけての神社は後年に再建されたものばかりである。
八代の中央構造線と熊本の中央構造線である金峰山南側の立田山断層(熊本霊ライン)とに挟まれた
この地域で起こったことは増幅されて日本へ影響するが、
小西行長の行為によりキリスト教が日本国中に広がる可能性があったといえる。
例えば韓国では宗教人口は総人口の53%を占め、非宗教人口は47%である。
このうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18%、カトリックが11%、儒教0.2%となっている。
プロテスタントとカトリックを加えたキリスト教全体では29.2%で
キリスト教信者数は約1376万人となっていて仏教より信者の数が多く、第一位の宗教である。
この韓国のキリスト教が広まるきっかけとなったのは、
キリシタン大名小西行長の求めに応じてイエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが朝鮮に出向いたからである。
小西行長の布教活動は、当然九州に浸透していったが、これにことごとく対抗したのが加藤清正公である。
小西行長は朝鮮出兵では和平交渉に尽力しているし私財での慈善事業を行うなど尊敬すべき点も多いが、
結局彼の人生は清正との対立の中で敗者となってしまう。

そういう意味で加藤清正公に味方した神霊が、
キリスト教の布教に対抗したように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、
筆者なりの調査の結果では、どうも違うようである。

このひとつの神のみを信仰しそれを一神教として広めようとすると祟られる呪いはもっと根源的なものである。
筆者はそれを表面的には封印されている縄文神の呪いであると感じている。

蘇我氏は、縄文神の呪いを封印するために仏教を選択しようとしたように思う。
もともとこの封印は結界師である天皇家の役割であった。
ところが、世俗にまみれ権力志向の中で天皇の巫覡としての力は弱まり、
代役が求められるようになってきていた。


ひとつの神のみを信仰しそれを一神教として広めようとすると祟られ滅びる例として
物部氏の衰退も上げられる。
物部氏は蘇我氏との間で神道VS仏教の宗教戦争に敗れたといわれているが、この話にはいくつもの謎が隠されている。、
ただ強大な軍事力を持つ物部氏が戦に負け敗退したことだけは事実である。
ここに物部神道は滅び去ったといえる。
残る中臣神道は、中臣氏が藤原氏と名を換え藤原不比等が信仰の拡大を捨てる事で
祭祀つまり政(まつりごと)から宗教色を取り払い、律令政治としたことで生き残った。

また一向宗もあれだけの勢力となりながら石山本願寺で織田信長に破れ去った。
この歴史も調べていくとどうも祟られているとしか思えない節がある。

あるいは古くは大生部多(おおふべのおお)という男が「常世神」(とこよのかみ)を広めている。
「常世神」とは常世虫に対する信仰のことである。
家の家財を投げうちて虫を祭る者が多く、秦河勝は民が惑わされるのを許さず、大生部多を討ったとある。

第二次世界大戦で敗戦を喫しあらひと神である天皇が人間宣言を行ったのも、
そう思ってよくよく歴史を調べると
まさに祟られて滅びの道を強制的に進まされたとしか思えない。

また弘法大師空海が三輪に三面大黒の結界を仕掛けることをしながら
決して自らの教団である真言宗をある規模から拡大させようとしなかったのは
縄文神の霊力に対して自らの限界を知ると同時に
この祟りを正面から受けないためであったと筆者は考えている。

日蓮の場合は途中で竜に助けられると同時にそのことに気づかされて縄文神信仰をさらに強めている。
その秘密は身延山(七面山)に隠されているようである。


では縄文時代からの古代日本人が信仰していた縄文神とはどんな神なのかというと
筆者は想像の範囲から超えて話が出来ないが以下の2柱の神霊の存在を感じている。
遮光式土器で表される全てを産み出す神=女神アラハバキ
火焔土器で表される燃やし消し去る神=岐神

遮光式土器 火焔土器




出雲では「神在祭」という神事が行われる。
海でお祓いをしに十数名の神官達が稲佐の浜に到着。
1時間あまりの儀式を終えた後、あがったセグロウミヘビ(海蛇)を持って神官達は出雲大社へ向かう。
これによって出雲に八百万神を迎えることになる。
1週間留まった末、また八百万神はそれぞれの国へ帰っていく。
つまり竜蛇神信仰があるわけだが、
『古事記」に、垂仁天皇の皇子の本牟智和気御子(ホムチワケ)は
出雲にゆき「檳榔(アジマサ)の長穂宮」に住んだ。
ある夜、肥長比賣(ヒナガヒメ)とむすばれたが、その姫をそっと見ると蛇であったのでホムチワケは逃げ出した。
ヒナガヒメは「海原を光らして」追いかけてきた、とある。
ナガの語源はもともとサンスクリットのナーガからきたもので蛇をさすといわれている。

また綿津見神(海童神)の娘である豊玉姫神は彦火火出見尊(火遠理命)との間に
鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)をもうけるが、
豊玉姫神の出産時の姿は鰐であったとなっている。

また三輪山の神は巳様と呼ばれる蛇であり倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は
蛇巫女として巳様に仕えたようだが、この巳様が大物主神であるとの伝承がある。

この爬虫類を竜神・竜蛇神・蛇神とみなし、祭祀する信仰は、
やはり縄文時代からのものであろうが縄文神信仰とは別に受け継がれてきている。

しかしながらこの竜蛇神は、眷属神的な働きをもたらす神霊であり
呪い祟る縄文神の根源的な存在ではなさそうである。

龍の改心物語は多く、萬巻上人によって改心した箱根の九頭龍神が有名である。
天橋立神社に祀られる龍神も文殊菩薩によって改心し善龍となっている。
熊本の池辺寺の龍は真澄により調伏されて独鈷山八王社に祀られているし
別の伝承ではこの龍は空海によって滅せられ熊本市田崎の眞勝山龍角寺に祀られたという。
江島縁起でも五頭龍が弁財天女により改心した話がある。
http://www.enoshimajinja.or.jp/enoshima_engi/enoshima-engi01.html
これらの龍は縄文人の呪いが解けた龍なのだろうか?疑問が残る。

中国の古代苗族の伝説によると人類の祖である伏羲(ふっき)と女媧(じょか)は蛇身を持っている。
また同じく三皇である神農は牛身であるが、どうも牛身と蛇身の系統は日本でも引き継がれている。
牛身の神農は日本では少彦名神と同神とされている。
また疫病の神である牛頭天王は素盞嗚尊と
同一視されることもある。
この2系統は人類のDNAに存在する水生人類としての爬虫類両生類的記憶と
哺乳類としての記憶として代表される牛に由来するものではなかろうか?

伏羲(ふっき)と女媧(じょか)


神農 神農

再度、武内宿禰に戻って話を進めるが実は良くわからないことばかりだ。
最初に 神功皇后の子供の応神天皇は武内宿禰との間に出来た子供と考えていると記載したが、
神功皇后との間に子供が出来たのは間違いないと確信しているが、
その子供が応神天皇となったのかには異説がある。
宇佐家伝承では、その神功皇后の子供は誉田天皇であり、応神天皇とは別人物と言っている。
応神天皇は宇佐家が誉田天皇の軍を打ち破り中央に進出して建てた新政権の天皇だというのだ。
そして宇佐家は菟狭族(うさぞく)の血統であり、
神武の御代に九州宇佐の地の首長夫婦として君臨していたのが、
菟狭津彦(うさつひこ)と菟狭津姫(うさつひめ)だという。
この地に神武天皇が東征軍が進駐してきて、帰順を示した菟狭津彦が菟狭津姫を神武天皇に差し出して
それで生まれた子供が宇佐都臣命であり、この血統を引き継ぐのが応神天皇(宇佐押人)という。
宇佐都臣命が神武天皇の血縁なのかは、DNA鑑定のない当時としては難しいだろうが、
この宇佐家伝承によれば14代仲哀天皇で天皇の血統は途絶え
宇佐都臣命に繋がる応神天皇が即位したということになる。
そして武内宿禰は御諸別命に敗れて行方不明となり
神功皇后とその子供の誉田天皇は今の福岡県香原町勾金に幽閉されて
この地で亡くなったという伝承となっている。 参照「古伝が語る古代史」P58、185

話が変わるが、宇佐家伝承によるとこのホームページでも紹介している幣立神宮は景行天皇の御陵だそうだ。P179

この幣立神宮(幣立神社)の春木宮司の著作「青年地球誕生」によると
成田とう女史の霊告としてではあるが、神功皇后と武内宿禰の間の子供は天君と呼ばれたが
武内宿禰は刺殺されて天君公は憤死したそうである。
そしてこれを高天原の乱と呼ぶそうである。P249

また『日本書紀』によると武内宿禰と成務天皇とは生年月日が全く同じだそうだ。
また武内宿禰の子供と応神天皇の子供も生年月日が全く同じと記載されている。
そしてそれぞれの子供の名前を交換して大鷦鷯(天皇)と木菟(宿禰)としたそうだ。
これは何を現しているのだろうか?

この謎については今年2009年のうちに解決させるつもりで現在調査中である。
随時更新したい。


追記 20090419
武内宿禰の子供が蘇我石川宿禰で蘇我の初代と言われているが、
熊本県八代市鏡町の印鑰神社(いんにゃく)の祭神は、蘇我石川宿禰となっている。
この地に来た蘇我石川宿禰を地元民がもてなそうとしたが、
海が荒れていて漁が出来なかったので、近くの池の鮒を取ってきて供したという伝承が残っており、
現在も春季大祭として史実にちなんだ鮒取り神事が行われている。
筑後の印鑰神社の祭神は武内宿禰、もしくは道君首名公と考えられるが
この八代市鏡町の蘇我石川宿禰の伝承は妙にリアリティがある。
蘇我氏が歴史の中で封印されてきたことを考えるときにこの伝承は重要だと感じている。
この地に蘇我石川宿禰が来た目的は凶徒鎮定ということらしい。
だとするとまつろわぬ民である熊襲征伐であろうか?
またこの神社が印鑰神社となっているところをみると蘇我石川宿禰から
印鑰を拝領された可能性も考えられる。
博多の香椎宮末社の印鑰神社も蘇我石川宿禰が祭祀されている。
ちなみに香椎宮の摂社には武内宿禰が祭られている。


この印鑰神社考察は、「道君首名公の久留米での功績」でも考察している。

蘇我氏と三光の紋

熊本霊ラインと中央構造線」でも考察しているが
八代の妙見宮の傍にに鎮宅霊符神社が存在する。
この鎮宅霊符神社の謂われは推古女帝の時代に百済の聖明王第三ノ御子の琳聖太子によって、
熊本県の八代の神宮寺に鎮宅七十ニ霊符が伝えられたのが始まりといわれている。
この鎮宅霊符神社の旗印は日月北斗七星と剣に玄武(亀と蛇)となっている。 
以下写真参照のこと
この三光と北斗七星の図柄がどういう経緯で作られたのか興味が湧いたので調査したことがある。
日月星印の三光の紋といえば京都の城南宮や福井の足羽神社、鯖江市の船津神社等を以前調査したが
どうもこれらの三光の紋は、神功皇后と武内宿禰公由来と思えた。
城南宮の三光の紋由緒によると、「神功皇后(息長帯日賣命)が、軍船にたて給う旗を当地に納められたが、
その日月星の御紋章が即ち当城南宮の三光の神紋の由来である。」とあると記載されている。
とすると八代の鎮宅霊符神社より古い話となる。
この三光の紋については、それから1年間話しに進展がなかったが、
今回蘇我氏を調査してひらめいたことがあった。
それはこの三光の紋は蘇我氏が旗印として使っていたのではないかということだ。
つまり八代鏡町の印鑰神社には蘇我石川宿禰が祀られているが、
実は武内宿禰の子供には波多八代宿禰という人物もいる。
この八代の霊符神社の日月星を武内宿禰に繋がる蘇我氏がもたらしたと考えると
福井の足羽神社に三光の紋が伝わるのは、神功皇后の子供である誉田別命を武内宿禰と蘇我石川宿禰が
擁護して気比から越の足羽神社の地まで逃げ延びたからではないだろうか?
誉田別命の五世後の子供が継体天皇としてこの越の地より擁立されるが、
継体天皇は蘇我氏に守られていたので、継体天皇擁立後に急激に蘇我氏が勢力をつけたと考えることも出きる。
(日本書紀によると継体天皇は近江国=滋賀で生まれたとあるのでこれが史実だとすると仮説は崩れますが.....)
筆者は武内宿禰公と神功皇后の子供を誉田別命ではないかと考えている。
仲哀天皇の父は天皇では無いので13代成務天皇の後継については疑問がある。
神功皇后と武内宿禰の秘め事は、住吉神との秘め事と置き換えられて伝えられているが
武内宿禰公が仲哀天皇に仕えていたとは考えていない。
つまり武内宿禰と神功皇后は夫婦であったと想定している。
このことはここでの論旨から外れるので別途考察したいと思っている。
さて妙見信仰は千葉県で千葉氏が信仰したと聞いたことがあるのでネットで検索してみたら
妙見本宮千葉神社というものがありこの神社の紋も日月星の三光の紋だった。
ところでこの妙見本宮千葉神社というのは、千葉県千葉市中央区にあるが
この地を最初治めていたのは、蘇我氏であることが分かった。
同じ中央区に蘇我という地名があるがこの地名の由来が蘇我比咩神社御縁記として残っていた。
≪ 下総国二ノ宮(郷社)蘇我比咩神社御縁記 ≫
当神社は、今から壱阡五百年位前里人の守り神として祭られており
その後第12代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が
東国地方の夷たちを統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り
千葉沖に差しかかったところ風浪が強くなり船が沈没の危険にあった時
弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈め
この時一緒に同道して来た5人の比咩等も共に海中に身を投じた。
その内の1人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ
里人の手厚い看護により蘇生することが出来て都に帰ることが出来た。
この里人の行為に深く感激し第15代応神天皇の特別の命により
蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。
代々蘇我氏は「比ロ羊神社」「春日明神」を守護神としており
当地に両大神の分霊を受けづきて神社を建立した。
その徳は山よりも高く海より深く
人々から「御春日様」として敬慕され、江戸時代にはいるや
徳川家康も碌高十石を贈り敬拝した。
この所は江戸への街道又海上輸送の要衝にもあたるため
参勤する大名を始め多くの人々が参詣した。
今もって海難防止、民政安定の守護神として崇拝されております。


これから推察すると、この千葉の地に妙見信仰を持ち込んだのは
蘇我氏であるのは間違いなかろうと思える。

聖徳太子も蘇我系だと考えているが、この
聖徳太子は斑鳩の宮を造営している。
この斑鳩というのは鵤(いかる)という鳥に由来しているが、
この鳥のさえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから三光鳥ともいうとのことだ。
こう考えると
斑鳩が蘇我の本拠地として造営されたことは間違いない話であろう。

蘇我氏は武内宿禰と神功皇后に繋がる初期の妙見信仰を持っていたと仮定したい。
千葉妙見大縁起絵巻に書かれている北辰妙見尊星王は、亀の甲羅に乗る姿となっている。
丹後の籠神社で亀に乗る像を見かけたが、神武天皇を案内したという倭宿禰命の像であった。
倭宿禰命は珍彦(うずひこ)とも呼ばれているが
『古事記』によれば、第八代孝元天皇の孫である武内宿禰は、
武内宿禰の母は珍彦(うずひこ)の娘の山下影日売(やましたかげひめ)とある。
つまり武内宿禰の母方の祖父が珍彦ということになる。
この珍彦=倭宿禰命=椎根津彦はもしかすると妙見信仰に関係があるのかもしれない。


籠神社は海部(あまべ)氏が祭祀しているが尾張氏と繋がっている。
壬申の乱では天武天皇に尾張氏と蘇我氏が味方しているが
これにより持統天皇と藤原不比等に黙殺される結果となってしまった。
それで物部系の石上朝臣麻呂が左大臣にまで昇りつめることが出来たと思われるが
籠神社では、物部の祖の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を祭祀するようになる。
彦火火出見命から天火明命=物部の祖に鞍替えしたのに藤原不比等の策略を感じている。
海部氏は海人系なのだから彦火火出見尊=山幸彦を祭祀するのが本来の姿だと思っている。



八代の鎮宅霊符神社 旗印 日月北斗七星に剣と玄武
京都 城南宮の三光の紋 京都 城南宮の三光の紋
福井の足羽神社の三光の紋 鯖江市の船津神社の三光の紋
天橋立の元伊勢 籠神社の裏紋の三光の紋はユダヤ系の六芒星に日月の紋 千葉妙見    蘇我比咩神社から一駅のところにある千葉神社の三光の紋




北辰妙見尊星王 妙見菩薩 珍彦=倭宿禰命





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