少彦名神考察


この少彦名神の考察に至った理由は、
筑後肥後の初代国司の道君首名公が
最初に作りあげたと思われる熊本霊ライン考察の過程で、
道君首名公自身が少彦名神を祭祀していることを知ったからである



まず最初に
道君首名公が713年の9月初代国司として筑後に赴任早々に
疱瘡(天然痘)の流行により死屍累々となった筑後の地に
ほど近い熊本県玉名の小天(おあま)で少彦名神を祭祀することにより
この伝染する疱瘡を平癒させた経緯が小天の天子宮に今なお伝えられ
「綿々と祈願の火祭り神事が1300年の永きに渡り欠かすことなく
この地の氏子に継続していることに敬意を示したい。


 仔細は小天神社調査記参照のこと


道君首名公を調べだして以降、熊本の地で少彦名神に霊流を感じること度々で
その経緯等を記載しながら最終的には少彦名神の出自にまで考察を
していきたいとの思いがある。


少彦名神調査のきっかけ

少彦名命についての考察 

熊本の味噌天神に祀られる神が少彦名命と道君首名メモに記載したが
少彦名神については醫祖天神という神名以外にも

手間天神とか小天少彦名神とか天子様とか呼ばれている。
少彦名神は高皇産霊(神皇産霊尊)の御子であるが
高皇産霊神皇産霊尊)の手の間から零れ落ちたので
手間天神と呼ばれるようになったという話である。
この手間天神から天満天神とも呼ばれるようになったと考えられる。
この天満天神は日本建国の神というだけでなく
疫病除けの神や醫祖(医薬の祖神)としても信仰されている。



『続日本紀』によれば, 735年(天平7)夏に大宰府管内で天然痘が流行し
737年(天平9)春には再び大宰府管内で流行し畿内にも及んだと記録されている。
この天然痘を持ち込んだのは遣唐使といわれている。
しかし天子宮由緒書きによればそれより以前の和銅6年(713年)の
道君首名公が初代国司として筑後に赴任した年にも
筑後は疫病が流行し死屍累々だったらしい。
だとすると大宝2年 (702年)に出航した遣唐使(粟田朝臣真人 正四位下)
の誰かが病気を持って帰国したということであろう。
道君首名公はこの疫病平癒を祈願するために
大国主神少彦名神を小天の地で祭祀したという。
七日七晩祭祀しても霊験が無く思い余って道君首名公が火中に入って身を炎にさらした時
神光赫躍たるを感じ神霊降臨し肥後筑後の民の疫病がことごとく平癒したという。

その後、天平7〜9年(735〜737)頃に大宰府の管内から始まった天然痘の流行より
この大宰府近辺にもに天満天神を祭祀したと想像する。
これは筑紫国司の道君首名公が和銅六年に少彦名神を祭祀することにより
疫病を平癒させた経緯によるものである。


その後この地に菅原道真が配流されてきてこの地で延喜3(903)年に没する。
この頃の御霊信仰により道真公の霊を鎮めて疫病などもたらす祟りを免れようと
道真公の御陵に、もともとこの地に祭られていた天満天神を祭祀したと考えている。
ところが987年に一条天皇の令で菅原道真公が天満天神として祭祀されることになる。
しかしこれは神名混同であり許されるべきことではない。
人霊昇格であるところの菅原道真公が少彦名神の神名を乗っ取った形となっている。
とはいうものの全国の天満天神社に参拝すると少彦名神の神徳を感じる結果となっている。
筆者は菅公の霊の神格を否定するものではないが
せめて菅原神社 天満宮 天神社には必ず少彦名神を併祀していただきたいと願っている。


(熊本 玉名 久留米では道君首名公及び少彦名神が祭祀されているが
多くは印鑰(いんにゃく)神社として残ってはいるものの
今では大半の神社では経緯が忘れ去られている。
はっきりしているのは小天天子宮 高橋天社宮 味噌天神 だけであろう。
ただ熊本の人吉や阿蘇の途中の大津にも天子宮がありこの天子とは
小天の天子宮の由来を考えると少彦名神祭祀と考えるのが妥当であろうと判断する。
もっとも調査では由緒として景行天皇を奉祭したとされるものも多い。
また景行天皇に関する神話伝説も数多く残っている。
しかしながら同じく大津では景行天皇を奉祭した大王宮という社も残っており
同じ地域で大王と天子と分けていることを考えると
大津天子宮も道君首名公の少彦名神祭祀故の名前という可能性も残る。
この件は「熊本に複数存在する天子宮の謎」のコーナーで詳細検討したい。
さらに少彦名神と天子を結びつける神社が京都奈良に存在する。)


参考までに奈良市高畑町の奈良創世時に祭祀された最古社である「天神社」の
天神社略縁起にも以下のように書かれている。
「もともとは少彦名神の一神を祀る天神社でしたが
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、
道真の霊を祀る天満宮が、各地に奉祭されるにともなって、
ここの神域にも、相殿が建てられて、御霊(ごりょう)信仰の主神であり、
学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。」
と記載されている。


さてその後の調査により、菅原道真公自身が少彦名神に参拝し
霊的効能を受けた経緯を伝える伝承を知ったので参考記載する。

豊中市服部天神社 由緒の写し


その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、
これらの子孫の多くがこの地に住まいました。              
「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして
「機織部」から成りたったものと思われますが、
第十九代允恭天皇の御代に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した
「服部連」の本拠地がこの服部であります。
(新撰姓氏録、第十八巻摂津国神別)
外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していましたので、
当神社はこの服部の地に古くから、おまつりしていたものと思われ、
その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定されています。
右大臣、菅原道眞公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることとなり、
延喜元年、京都から遥か筑紫の太宰府へ赴く途次、
このあたりで持病の脚気に悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
そこで村人のすすめで、医薬の祖神「少彦名命」をまつる服部の路傍の小祠に詣で、
一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや、むくみが治り、
再び健康を取り戻して、無事太宰府におつきになったと伝えられています。
菅公没後、北野天満宮をはじめとして、
天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の霊を合祀し
「服部天満宮」として堂宇を建立し、
「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、
次第に門前市をなす様になり、
「脚気天神」「足の神様」として全国の崇敬をあつめる様になりました。


場所:大阪伊丹空港そば
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.28.43.591N34.45.35.112&l=11
この服部天神社には菅原道真公も祭られていてそこに参拝した時に思ったのだが
菅原道真公は少彦名神を崇敬していて、それ故に
大宰府にもあったと考えられる少彦名神祭祀の社にも当然参拝しただろうと推測される。
菅原道真公の崇敬ゆえに少彦名神を祭る天満宮が菅原神社化していったのでは
なかろうかと思う。



さてこれは非常に重要なポイントであるが
日本の神道の歴史を取捨選択した人物に藤原不比等がいる。
大宝律令を整備し藤原四家繁栄の基礎を作り
古事記 日本書紀の執筆にも大きな影響を残した人物であり
談山神社 春日大社 興福寺などを創建している。
この不比等と道君首名公と間柄についての記載は
残念ながらどこにもみつからない。


少し話が飛ぶが道君首名公が少彦名神と大国主神を
現在の小天天子宮の地で祭祀したのは
713年の10月から11月頃と思われる。
この話が都まで登るのは714年から715年ということになる。
そして奈良の漢国神社(かんごうじんじゃ)に藤原不比等が
韓神として大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)
を祭祀したのは元正天皇の時代 養老元年11月28日となっている。
養老元年とは717年である。
道君首名公と藤原不比等に面識があるのは
お互いが大宝律令の撰修19名のメンバーであるから
周知の事実といえる。
いったいこれはどういう経緯なのであろうか?
私には道君首名公の少彦名命祭祀が伝説となって
奈良の都まで伝わったゆえのことと思える。
不比等はもともとそれより以前から大物主神を祭祀するこの旧名 率川坂岡神社に
大物主神を「園神」とし
大己貴命、少彦名命を「韓神」として分けて祭祀している。
それだけでなくそれ以降は、
歴代の藤原氏において丁寧に祭祀されてきた歴史がある。
道君首名公と不比等との因縁がどうしても見え隠れする。


場所:漢国神社
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.49.41.465N34.40.49.32&l=10



少彦名神考察に至る神霊的背景


熊本市の最古社である健軍神社の摂社の天社神社で霊的感応を受け
それ以降の探索で高橋町の天社宮を見つけ出した。
天社宮の案内書きで道君首名公を祭祀しているとの由来より
健軍神社内の天社神社も道君首名公祭祀と判断した。
健軍神社の禰宜が天社神社の祭神を「お不動さん」と言った訳も
首名公を「おぶとさん」という人がいることから
勘違いされたと容易に想像がつく。

しかしながら実はその後の調査でその時に私が感応した神霊は
祭祀されている道君首名公そのものではないことが分かってきた。

熊本の富合町の雁回山に六殿宮という神社がある。
ここに参拝したときの事だが右手の山側に感じるものがあって
導かれるままに上っていくとそれが少彦名神を祭祀した祠だった。
その瞬間にゑびす神だと感じた。
強く感じたので同行した友人にそのことを話したら
ゑびす神は蛭子か事代主神でしょうといわれ
私自身もなぜゑびす神と思ったのだろうといぶかしく思ったことがある。
ところが帰って検索してみると少数ではあるが少彦名神をゑびす神として
祭祀する神社も存在している。

また感応の印象が強かったので非常に気にしていたのだが
その後の熊本市味噌天神参拝と熊本市の保田窪菅原神社参拝時に
同様の氣を感じた。
厳密には保田窪菅原神社参拝時には
さらに埋没神の御神氣を風と共に強く感じた。
この後この件を自分なりに整理していて
健軍神社内の天社神社での霊的感応は少彦名神由来であるとの結論に至った。


話が前後するが
道君首名が祀った味噌天神のもともとは由緒書きによると御祖天神らしい。
京都の八坂神社に参拝していて摂社の五社に参拝したときに
味噌天神の祭神についてひらめいた。
ここの五社のひとつ天神社は祭神が少彦名命となっている。
実は丹波の出雲大神宮に前日赴いているのだが
ここに事代主神と少彦名命を祀った笑殿社というのがあり
ここに参拝したときに笑うという字に含まれる天という字が
少彦名命を表わすものであるのではないかと感じていたばかりで
次の日に八坂神社摂社の五社に参拝して確信が持てた。 ※この五社については後記
少彦名命を天神と言っていたのだ。
つまり道君首名公は少彦名命を熊本で疫病が流行った際に天神として祭祀したという訳である。
従って味噌天神は祭神は少彦名命である。
医薬の神様だあるから当然といえば当然であるが
醫祖天神→御祖天神→味噌天神という流れで味噌になった訳である。
この醫祖という漢字は医祖ということになる。
※八坂神社摂社の五社は八幡社 竈社 風神社 天神社 水神社の五社で
天神社の祭神は少彦名神で例祭日は十二月八日となっている。


それで道君首名と少彦名神でgoogle検索してみて
熊本の小天(おあま)に天子宮とも呼ばれる小天少彦名神社があり
この神社こそが道君首名公が当時流行した疫病平癒を
祈願した地に立てられた神社だということが分かった。


再記載するが『続日本紀』によれば, 735年(天平7)夏に大宰府管内で天然痘が流行し
737年(天平9)春には再び大宰府管内で流行し畿内にも及んだと記録されている。
この天然痘を持ち込んだのは遣唐使といわれている。

しかし天子宮由緒書きによれば和銅6年 713年の道君首名公が初代国司として
筑後に赴任した年にも筑後は疫病が流行し死屍累々だったらしい。
だとすると大宝2年 (702年)に出航した遣唐使(粟田朝臣真人 正四位下)
の誰かが病気を持って帰国したということであろう。
道君首名公はこの疫病平癒を祈願するために大国主神少彦名神を小天の地で祭祀している。

この小天の天子宮参拝でも同様の氣を感じた。
そこでこの地の少彦名神祭祀の神社を調べてみることにした。


玉名には疋野神社という古社があり
この境外摂社に「拝高天神社」という祠があるが
ここには少彦名神が祭祀されている。
ここはいわゆる同じ系統の神霊祭祀と思える。

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.33.7.277N32.56.11.863&l=10

さらにその北側300mに位置する「石天神」も同じ系統の神霊祭祀のようだ。
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.33.10.967N32.56.19.673&l=10

玉名には天満宮 菅原神社が多い。その代わり阿蘇神社が少ない。
また古史によると保田木神社(大明神)には道君首名公が祭祀されていたそうであるが
現在はその形跡を確認できない。
ただこの境内に柊の木が植えられていたのには少彦名神祭祀の名残を感じた。
またゑびす神が摂社で祭祀されているがこれも少彦名神祭祀の名残りであろう。


高瀬天満宮
三柱のうち右はゑびす神が祭祀されているが
これは少彦名神祭祀の名残と思われる。
ここは祈願を神霊が聞き入れてくれる霊験あらたかな神社だ

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.33.54.154N32.55.31.661&l=10


熊本市で少彦名神を祀る神社を探していたが
琴平通りの琴平宮(金比羅神社)には少彦名神が平祀されている。

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.42.27.27N32.46.57.867&l=11


偶然熊本市の東の外れの沼山津に少彦名神を祭祀する竹内神社を見つけた。
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.47.12.224N32.46.28.383&l=11

熊本市にはまだたくさんの少彦名神を祭祀する神社があったはずであるが
そのほとんどが天満宮 あるいは淡島明神となっている。


記録にはなくとも「味噌天神」 「天社宮」 「横手天満宮(下馬神社)」には
少彦名神が祭祀されている。

今は残念ながら由緒が失われてしまったが、
道君首名公が少彦名神を祭祀した事に由来する神社が
熊本には多数あったはずである。 
道君首名公の祭祀と少彦名神祭祀は今後とも継続して調査していきたい。



全国の少彦名神祭祀神社


全国の少彦名神について調査した中で思いつくところから順に記載すると

三輪の
大神神社は、倭大物主櫛長玉命を祭神とし、大巳貴神・少彦名神を配祀している。
しかし三輪には何回も足を運んだが熊本の天子宮と同じ系統と思えるのは、
となりの
狭井神社(花鎮社)である。
ところが狭井神社の祭神は主祭神は大神荒魂神に
配祀神として大物主神 姫蹈鞴五十鈴姫命 勢夜陀多良比売命 事代主神となっている。
自分なりにはどう考えても事代主神ではなくて少彦名神としか考えられない。
ここの鎮花祭も疫病平癒祈願由来らしい。
大物主の祟りを鎮めるというここともあるかもしれないが、
私が参拝するときにはもう少しやわらかい氣である天子宮と同じ氣を感じる。

三輪では狭井神社のとなりに
磐座神社があり少彦名神が単独で祭祀されている。
これも不思議といえば不思議。
狭井神社で祭祀されるべき少彦名神の名前が消え
隣の磐座神社に移っているのは理解できない。
たぶん御巫八神(宮中八神)が決められて事代主の地位が高まった際にでも
入れ替えられたのではなかろうか。
御巫八神(宮中八神)
神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神
足産日神・大宮売神 ・御食津神 ・事代主神


奈良の古社に
奈良町天神社がある。
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.50.22.906N34.40.30.561&l=10
この神社の天神社略縁起には以下のように書かれている。
「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京が我が国の首都であった8世紀、
平城の飛鳥(ならのあすか)と呼ばれた聖地でありました。
ここにまず祀られたのが、
国つ神の中心の一柱である少彦名命(すくなひこなのみこと)で、
手間天神とよばれ医薬や学問の神として崇められました。」

古来天神社といえばまずは少彦名神を指していたのではないかと思う。
ここには2度ほど参拝しているが未だ神霊感応は無い。
次回に期待している。

代わりといってはなんであるがその北3kmほどのところにある
奈良豆比彦神社が気になる。

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.50.13.321N34.42.3.801&l=10

この神社の裏手に奈良県指定の天然記念物に指定されている楠がある。
根元幹周り約12.8メートル 高さ約30メートルと大きいが
熊本天社宮にも東大阪の御厨の天神社にも天然記念物の楠の木がある。


奈良豆比彦神社には志貴皇子春日王が副祭祀されているが
志貴皇子といえば天智天皇の第七皇子。
母親は采女であった越道君娘である。
志貴皇子はまず十中八九、道君首名公とは母方ではあるが血縁関係があり
道君首名公の偉業を認識しているはず。
道君首名は若い貴族として大宝律令の制作メンバーに任命され
701年には大安寺にて僧尼令を説くなど将来を嘱望されていたはずである。
志貴皇子のほうが3歳程度道君首名より年上である。
この2人で一番近い血縁となれば従兄弟ということになる。

志貴皇子の第六子の白壁王が光仁天皇として即位しているが
志貴皇子にとって自分の後胤が天皇に即位するとは考えられない奇跡ともいえる。
さてこの血族が祭祀した奈良豆比彦神とは産土の神の平城津彦神ともいわれており
奈良町天神社略縁起にも「平城京の時代にここにまず祀られたのが、
国つ神の中心の一柱である少彦名命」とも書かれている通り
平城津彦神=奈良豆比彦神とは間違いなく少彦名神に思える。
ただ参拝した感覚からいうと道君首名公そのものを祭祀しているかもと
感じてしまうようなものだった。
首名=おびとな=小人名=少彦名ともとれる。
まあこれは御神木の楠の霊氣故の感応であろう。

ところでここに伝わる翁舞の由来は、春日王が病気になったとき、
第一皇子・浄人(きよひと)と第二皇子・安貴王が、
奈良豆比古神に父君の平癒を祈願して
舞を奉納したことに始まると伝えられている。
病気平癒も少彦名神の霊験である。



さてこの奈良豆比彦神社の南に
常陸神社(ひだちじんじゃ)奈良市法蓮町がある。
ここの祭神も少彦名神(少名彦那命)である。

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.49.17.878N34.41.32.024&l=11

常陸神社勧請の記によると

常陸神社の御祭神を、少名毘古那の尊と申す。
今より千余年の昔、国司たりし常陸大豪
中臣連と言う人が、
少那彦那の神を信じ、一社を建立信仰せられたる時、
桓武天皇、延暦7年、都を山城国愛宕郡へ遷し賜うに際し
祭神を当佐保岡の地に移し賜えり。
然るに、中世応仁の大乱により神社も廃壊して、
神燈も絶へんとせしを、徳川の治世となり、
8代将軍吉宗公、寺の由来を調べ再建ありし時、
当神社を郡山の城主 柳沢甲斐吉里公に、申し付け、
御造営ありてより、参詣者、続々と相集り、時移り、
明治の後期、拝殿・社務所等を改築し今日に至る。
「わざわいは、少名彦那(すくなひこな)の神なれば 
祈るやまひも、ひたちなるらん」
昭和48年4月19日建立 常陸神社


大和神社の摂社(末社)の歯定神社  ※ 下に別途追記載
祭神 少彦名神・大己貴命

歯の神様といわれており社の前に鎮座する2個の磐座は犬歯と臼歯とも言われている。
ただこの2個の磐座は少彦名神・大己貴命の二神のようにも見える。
また奈良県橿原市慈明町の天神社境内 白山神社は
「はんじょうさん」と呼ばれ歯の神様としての信仰がある。
歯定神社の本当の祭神少彦名神なのか白山神のどちらなのかさらに調査していきたい。

三輪からみて歴史に残る峠として逢坂 墨坂 忍坂とあり
逢坂には大阪山口神社 穴虫大坂山口神社
墨坂には墨坂神社
忍坂には押坂山口坐神社 忍坂坐生根神社
が祭られている。
このうち
忍坂坐生根神社には少彦名神が祭られ
大阪住吉の生根神社の基社とも云われている。

宇陀から伊勢本街道を通って吉野に抜ける途中の三茶屋に久須斯神社がある。
この久須斯及び久斯は酒のことであり祭神は少彦名神となっている。


京都で少彦名神を古くから祭祀する古社に
五條天神宮がある。
ここは天使宮と呼ばれているが
本来は天使宮とは天子宮のことであろう。
天皇を天子と呼ぶようになり恐れ多いということで
天子から天使となったと思われる。
この五條天神=少彦名神の感応を受けて
牛若丸と弁慶の話が出来てきたものと思われる。
当然 小さい牛若丸が少彦名神にオーバーラップする。
この五條天神に伝わる嘉賀美能加和(カガミノカワ)宝船は
最古の宝船と考えられる。 
※色紙写真を下に添付
この神社から派生した(勧請された)神社と考えられるものに
東京上野の五條天神があるが
ただ由緒書きには創建は日本武尊となっている。
大阪の道修町の少彦名神社は安永9年(1780)10月に
京都の五條天神から勧請したことが記録されている。
この五條天神と由岐神社については
別途詳細に記載したいと思っているが
京の疫病除け神社として祇園社と五條天神と由岐神社は
いろいろな歴史が残っている。
この京都五條天神は794年の桓武天皇の平安遷都に当たり
大和国宇陀郡からの勧請といわれている。
特に天皇の疫病の際には平癒祈願の役割を担い
祭祀されていたようである。
徒然草 第203段に
勅勘の所に靫懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。
主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。
鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。
看督長の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。
この事絶えて後、今の世には、封を著くることになりにけり。
(徒然草の執筆は鎌倉時代の1330年8月から1331年9月頃といわれる)

これは直接に五條天神と由岐神社に言及したものではないが
天皇の疫病の際に天神に弓のケースである靫(ゆき)を懸ける習慣にならい
天皇の不興をかって謹慎を言いつけられた家に靫が掛けられると
その家は封印されたとみなされ出入りが禁止された。
こういう習慣は忘れ去られたほうがいいと吉田兼好は言っている。
さて五條天神 由岐神社に靫掛けるとはどういうことであろうか?
調べてみると由岐神社の由岐とは靫からきているらしい。
天神に靫を掛け封印するということはあるまじき行為であるが
疫病に霊験ある神霊が逆恨みか厄神に落としめられたと考えられる。

この五條天神を勧請した桓武天皇が続日本紀の編纂を指示しているが
続日本紀に道君首名公が詳細に記載されているのは
この平安遷都の時代にまで道君首名公の偉業が伝わっていたといえる根拠となる。

京都 五條天神
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.45.28.122N34.59.43.605&l=11

京都 北野天満宮 
となりに大将軍八神社がある。
大阪天満宮のところにまとめて記載


沙沙貴神社
近江 滋賀県安土町

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E136.8.14.72N35.8.0.747&l=10
古代の豪族、狭狭城山君の氏神
近江源氏につながり
源 頼朝書「佐佐木大明神」の額がある。


主祭神は少彦名神
神話の時代に少彦名神が
ササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から
「ササキ神社」が始まったと伝えられている。

副祭神
古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の
祖神「大毘古神」(おおひこ)
仁徳天皇 「大鷦鷯尊」(おおささきのすめらみこと)

先代舊事紀大成経の鷦鷯本が秘蔵されていた神社だ。
ちなみに
鷦鷯=みそさざい 鳥のことである

http://www.tokaido.co.jp/lab/makino/43misosazai01.htm


大阪 露天神社 お初天神
祭神は少彦名神と菅原道真公

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.30.11.332N34.41.46.319&l=10
この神社で古神道行法大家の荒深道斉(あらふかみちなり)に
浅野和三郎による鎮魂帰神により「イワイヌシ」が降臨している。
そしてイワイヌシとは神武天皇に仕えた道臣のことと審神されている。

道臣命とは

大伴氏の祖。
天忍日命の曾孫。最初、日臣命(ひのおみのみこと)と名乗った。
神武即位前戊午年6月、神武天皇東征のとき、
大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、宇陀までの道を通す。
この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。
同年8月、天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。
同年9月、神武天皇みずからが高皇産霊尊の顕斎を行う際、
斎主となり「厳媛(いつひめ)」と名付られる。
同年10月、大来目らを率い、国見丘の八十梟師(やそたける)の残党を討伐する。
辛酉年、大来目部を率い、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)を以て妖気を払う。
神武即位の翌年には、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。


天忍日命 あまのおしひのみこと とは
大伴氏の始祖。
伴氏系図などは高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子神とする。

記によれば、「天孫降臨の際、天久米命と共に、
天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、天の波士弓(はじゆみ)を持ち、
天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
 また書紀神代下一書によれば、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、
臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、
手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、
また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、
天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。」とある。

だとするとこの少彦名神を祭祀する神社でイワイヌシを道臣と審神されたことは
高皇産霊尊の系統がらみということになる。

少彦名神も
高皇産霊の御子もしくは神皇産霊尊の御子とも云われている。
この高皇産霊神と神皇産霊神については一般に
高皇産霊神=皇室天皇系の神霊
神皇産霊神=出雲系の神霊
と考えられている。
少彦名神がどちらの系統なのかは重要なテーマとなる。
筆者なりには出雲系の大国主命と皇室系の少彦名神が共に協力して
日本国を建国したというように信じたい。


大阪天満宮
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.30.55.96N34.41.33.7&l=11
参考文書 抜粋
菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、
2年後にわずか59歳でその生涯をとじました。
(延喜3年/903年2月25日)その約50年後、
天暦3年(949年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、
夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。
この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、
同地に勅命を以て鎮座されました。


大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、
大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて
「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、
神事の中で「祖(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。

毎年六月と一二月の晦日には、都への四方からの進入路上で、
「八衢比古(やちまたひこ)神・八衢比売(やちまたひめ)神・久那斗(くなど)神」の三神を饗応し、
「鬼魅(もののけ)」が都に入るのを防ぐ道饗祭(みちあえのまつり)が行われた。
当時の人々が最も恐れた鬼魅は疫病、特に疱瘡であった。
道饗祭において、疫神である「八衢比古神・八衢比売神」と、
異境の悪神を避ける「久那斗神」を祀ったのは、そのためであった。
三神に「於富加牟津見(おほかむつみ)神」を加えた四神を祭神している。
於富加牟津見神は、桃の実の精で、悪気を払う霊力ある神とされる。
御伽草子の桃太郎は、実はこの神がモデルであり、
退治される鬼は疫病(疱瘡)を象徴している。


於富加牟津見神=意富加牟豆美

大将軍の神は、実は大白星(金星)の精であった。
本来、太白星は、方位を司る「方伯神」であり、その定位置は西方とされていた。

京都 北野天満宮と大将軍八神社

http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.44.17.4N35.1.31.8&l=10

大阪も京都も同じであるが
大将軍社の疱瘡除けというあたりから もともと少彦名神も祭祀していたのでは
なかろうかと感じている。
そして少彦名神を祭祀していたから天満宮に変遷したのではなかろうか?

大阪の道修町(どしょうまち)の
少彦名神社
安永九年(1780)十月、薬種中買仲間で組織する伊勢講が、
京都五條天神社より分霊を道修町の奇会所に勧請し、
神農氏とともに合わせ祀ったのがはじまりで
比較的新しい神社であるが伊勢講の『尊社書』が資料館にあり参考になる。
参考コピー文
当時、唐薬種だけではなく、国産和薬種も道修町の流通網に乗って全国に供給されていたため、
安永9年(1780)、わが国の医薬の神である少彦名神(すくなひこなのかみ)の分霊を
京都・五條天神宮(現・五條天神社)からお迎えし、
薬種中買仲間の寄合所(現在の少彦名神社の位置)にお祀りするようになりました。
その折の『少彦名神勧請式』の袋が、資料館展示室の2番目のショーケースに展示されています。
この袋の表書きから、伊勢講の人々が慎み畏(かしこ)んで祭祀を奉仕していたことが分かります。
この袋の中には少彦名神『尊社書』が入っており、伊勢講によって書かれたものです。
それを解読すると次のようになります。

「少彦名神は本朝(日本)医薬の祖神なり。異朝(中国)にては神農氏を以って医薬の祖とす。
紀南加田(和歌山市加太)に垂迹(すいじゃく−現れる)ありて粟嶋(あわしま)大明神と崇敬し、
平安城(京都)松原通西洞院(にしのとういん)に鎮座まして五條天神宮と申して、
天子不豫(ご病気)なるときは
葛(かつら)の長く負う處の靱(ゆき−矢を入れる器)をこの神前に掛ける(平癒を祈る)。
これ医の神たるをもってなり。
除夜には諸人(もろびと)この御宮に詣でて、
白朮(びゃくじつ―おけら;菊科の多年植物で食用・漢方薬の原料となる)を受けて
載中(年中)疫を祓(はら)うなり。
萬民その澤(たく−恩恵)を蒙らざる者なく、
なかんずくこの薬肆(し)中買商売の輩(やから−薬種中買仲間)は尊敬いたし、
朝夕真偽相改め大切に売買慎み、子孫の無窮を祈り奉るべく、
この寄合所へ勧請申し、例年9月11日ご祭礼の式相勤め遣わし、
益々仲間は神慮を恐れ奉り、誠心を盡くし、尊敬奉るべきものなり。 安永9年10月」



東大阪 御厨天神社(みくりやてんじんじゃ)
ここは偶然レンタカーを走らせ石切劔箭神社に向かう最中に迷い込んで見つけた神社だった。
この神社は大名持命(大國主命) 少彦名神を祭祀しているが
天神社という名前なのに菅原道真公を並祀されていない気骨のある神社。
ここには東大阪で一番大きい楠の木がある。
熊本天社宮にも大クスがあり御神霊の宿るゆえと思える。
境内は非常に氣がよく霊験ありその後も通っている。
地図
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.35.17.331N34.40.7.669&l=11

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=135%2F35%2F17.535&pnf=1&size=500%2C500&nl=34%2F40%2F07.103


関東に関して少彦名神祭祀
上野五條天神

由緒では京都五條天神より古いことになるが
残念ながら霊的感応を得られなかった。

神田明神 
出雲氏族で大己貴命の子孫の真神田臣(まかんだおみ)により
武蔵国豊島郡芝崎村である現在の東京都千代田区大手町 将門塚周辺に
天平2年(730)創建されたとの事。
平将門が並祀されているのが特徴。


布田天神社 調布市 (武蔵国)
http://www.its-mo.com/z.htm?m=E139.32.55.124N35.39.12.729&l=9
この神社は調布にあるが
府中にある
大國魂神社と対をなしている。
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E132.33.57.158N33.29.52.746&l=9
http://www.its-mo.com/z.htm?m=E139.28.55.742N35.39.51.766&l=11

甲州街道(国道20号線)で結ばれている。
この両神社には深い感銘を受けた。
国家の安泰祈願には強い力を発揮する神霊力を感じた。
常陸国の酒列磯前社 大洗磯前神社との関係も
十分に考慮して別途まとめたいと思っている。



熊野本宮 摂社 音無天神 
祭神 少彦名神
(旧社地の大斎原内)
「紀伊 東牟婁郡史」から抜粋すると
「所在 一坪四分 向二尺五寸
奥行一尺九寸向拝出端二尺八寸屋根栩葺」
と記されているので、小さな御社だったようだ。

もとは少彦名神を祭祀している神社であるが
能の「巻絹」に出てくるこの神は
梅との関連から菅原道真公になり代わっている



和歌山県の加太神社(かだじんじゃ)
ここの淡島明神は少彦名神とされている。
少彦名神の眷属が蛙であるとの伝承を持つ。

ちなみに伊勢の夫婦岩がある二見興玉神社は
猿田彦命を祭祀するがここでは蛙は猿田彦命の眷属といわれている。


この神社には神功皇后の伝承が残っている。
神功皇后が出兵からの帰途に嵐にあい、天神地祇に祈ったところ
友ヶ島にたどり着き、そこに少彦名命が祀られていた祠があった。

数年後にその祠を神功皇后の孫である仁徳天皇が
対岸の加太に祭祀し直したのが
加太淡島神社といわれている

加太淡島神社の神事に雛流しがある。
一説にはここがお雛様の神とされるのは
神功皇后(息長足姫尊)が懐妊の身で遠征を行った時に
赤白の帯下に悩まされ、薬草を試みたところ平癒したという伝承があり、
それで神功皇后が少彦名命の雛型を奉納したことにより
お雛様の神とされたということである。


五條市でもこの雛流しは行われており
「竹ひごや楊子などに大豆、または豌豆を刺して
これに顔を描き、千代紙で着物を着せて
菱餅などとともに竹の皮の船に乗せ吉野川へ流す。
各家庭の女子が女性の数だけ作り、
それを婦人病や安産の神で知られる下流の
加太の淡島神社へ届くようにと流す。」とある。


雛及び雛人形とは少彦名神のことかもしれないと感じる。

※ちなみに少彦名神神功皇后の男女一対の神像は
この
加太淡島神社以外にもいくつか存在しているのを確認している。


四国には道後温泉等に少彦名神の足跡が認められる他

大洲市の少彦名神社伝承では
「肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。
土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。
その後御陵を設けてお祀りしたのがこの大洲市の少彦名神社である。
少彦名命は医学・養蚕・酒造等の神様で
県下は勿論のこと高知県、九州方面から参拝者も多い。
命の神体を祀ってあるところは全国に多数あるが
終焉の地は当地といわれている。」
とある。興味ある伝承だ


http://www.its-mo.com/y.htm?m=E132.34.44.607N33.30.12.386&l=9



山形の湯殿山も少彦名神を祭っている。
この神社は特殊なので別途記載したい。



伊賀一宮の敢国神社
秦氏により少彦名神祭祀 
これは豊中市服部天神で少彦名神を祭祀するのと同じ由来といえる。
それに崇神天皇の御代に四道将軍の一人として、
北陸を平定し伊賀の国に永住したといわれる道君首名公の
祖でもある大彦命 も祀っている。
これは沙沙貴神社で記載した
古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の
祖神「大毘古神」と同一である。

どうも秦氏 少彦名神 大彦命 道君首名公とに繋がりを感じる。
道君首名公と少彦名神とゆかりがあるからこそ小天での祭祀で
神霊が降臨したのだろうと感じる。

そう考えると道氏が越の国で祭祀する白山菊理姫と少彦名神との間にも
系統的つながりがあるのかもしれない。

とすると地理的がらみで高句麗 新羅の
「韓神」ということかもしれない。
この詳細は、少彦名神の父神の出自にもかかわるので
別途検討したい。


20060806記載
少彦名神は薬神 温泉神および疫神を追い払う力を持った神というだけでなく
酒の神ともいわれているが
それは『日本書紀』仲哀天皇段で
神功皇后の子供の応神天皇が新羅を平らげて実質即位した時に、
敦賀の気比大神と名替えの神事を行い、そこで酒宴を催して
その時、神功皇后は
「此の御酒は我が御酒非ず、酒の司、常世に坐す石立たす少名御神の神寿き、
寿き狂ほし豊寿き寿き廻ほし、献り来し御酒ざぞ、あさ食せ、ささ」

と歌って、酒を勧めます。
この少彦名神が作ったという特別な酒から酒神とされているようです。

『弘仁私記』にも「少彦名神、是造酒神也」と記されているそうです。

嵐山の松尾神社に祀る大山咋神も酒神として著名ですし
三輪の大神も酒の神とされていますが、
大山咋神は葛野県主(鴨氏)の祖神で、
少彦名神とは繋がりが深そうです。
三輪でも大物主神に少彦名神が併祀されています。


『日本書紀』では崇神天皇の段で大物主神にも酒神としての神格を与えています。
冬12月20日、天皇は大田田根子命に大物主神を祀らせた。
この日、活日は御酒を天皇にたてまつり、歌を詠んだ。
「此の御酒は 我が酒非ず 倭成す 大物主の醸みし酒 幾久 幾久」
このように歌って神の宮で宴を開いた。宴が終わり諸大夫が歌った。
「味酒(うまざけ) 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出て行かな 三輪の殿門を」
天皇も歌って言った。
「味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を」
そして神の宮を開いて出てきた。
この大田田根子命は三輪君らの祖先である。



少彦名神は大國主命の国造りにまつわるおまけとして
「大」に対して「少」というように形成された神ではなく
もっと日本建国の歴史の中で渡来系民族や海人族にも関わる
大きな存在であることだけは間違いなさそうである。

三輪に祭られる大物主神と少彦名神と大國主命について
そしてさらに素戔嗚尊の関係については
今後の重要課題として明確にしていきたい。




京都の祇園さんと少彦名神

祇園の四条通りの西の楼門をくぐり八坂神社に入るとまず正面に疫神社がある。
この疫神社にて祇園祭の締めくくりに疫神社夏越祓として茅野輪クグリが行われる。
疫神社に祭られるのは蘇民将来となっている。
しかしながらこの疫神社は八坂神社でもっとも神氣が強く不思議に思って由緒を調べてみた。

もともとこの地には高句麗からの渡来人である八坂連が定住していたらしい。
元慶元年(877)都下に疫病が流行した際に摂政右大臣藤原基経が
この八坂の地に祭られる「天神社」に疫病平癒祈願して霊験があったそうだ。
この神社は別の文献では「役神社」となっている。
藤原基経はこの霊験にいたく感動してこの地に居宅を寄進して
観慶寺(かんぎょうじ)を建てている。
文献では時代が1年錯誤するが
南都の僧円如が貞観十八年(876)六月十四日に、
この役神社の側に藤原基経の助力を得て、
薬師・千手観音などの像を祀った堂宇を建立したのが
八坂神社のはじめとも言われている。

観慶寺(かんぎょうじ)は藤原基経に神の感応があったということで感神院とも呼ばれている。
またこの行為を須達長者が釈迦のために造った祇園精舎に因んで祇園寺とよび、
天神堂(役神社)は祇園社と呼ばれるようになったとのことである。
そしてこの観慶寺は藤原氏だけあって興福寺の管轄となってゆく。


基経は藤原長良と乙春との子であるが
長良と難波連淵子との間に出来た異母兄弟に藤原淑子(ふじわらのしゅくし)がいる。

この淑子は宇多天皇の平癒祈願のため887年に勅命を受け
今の哲学の道にある大豊神社に医薬祖神の少彦名命を奉祀している。


また藤原基経(836-891)は阿衡事件(あこうじけん)を起こし、
菅原道真に進言され鉾を収めているが
その子である藤原時平 (871-909)の讒言により道真は大宰府にに左遷されている。
39歳の若さで早逝したために、道真の祟りだといわれた。
時平の死後、藤原氏の実権は弟の忠平に移ることになった。
さてこの弟の藤原忠平であるが
皇室の守護神として御所にお祀りしていた少彦名神 大國主命を
鞍馬の由岐神社に940年に勅命を受けて遷宮を執り行った責任者であり
その儀式は国家的一大儀式であったと言われている。

基経の姉 息子共に勅命により少彦名神の祭祀を執り行っているが
これはなぜなのか?

たぶん八坂の地に祭られていた「役神社」とは
もともとは「薬神社」で少彦名神を祭祀していたものと思われる。
摂政右大臣藤原基経は少彦名神を祭祀していたからこそ疫病平癒祈願したのであろう。
そして霊験があったこととが広まり
異母姉の淑子の宇多天皇の平癒祈願につながったのであろうと思われる。


歯の神様20070707

私ごとながら昔より虫歯に悩まされ続けていて何処かにいい歯の神様はいないものだろうかと思っていた。
今年の三輪参拝で偶然知った大和神社の摂社(末社)の歯定神社に参拝してきた。
実は前日の夕方 兵主神社から向かおうとして道が分からなくてどうしてもこの神社にたどり着かなかった。

このあたりの道はそれでなくても道が狭く先も分からないしUターンも出来ない上に
両側に溝があったりして冷や汗たらしながら進まないといけない道ばかりだ。

次の日の朝に最初入った道も間違いだったようでまさに結界が張られているみたいな氣がした。
それで結界祓いの祈りを奉げたあと(自分の歯が弱いという宿命が結界となったか?)気合一発進んだ。
寺があってそこを右折したあとに地元の人が休んでいたので尋ねた。
そしたらここらあたりは自分の散歩コースだけど歯の神社は知らないという。
話を聞きながら横見ると広場になっていて社が二つある。

そこの手前側にしっかりと歯定神社と書かれている。
「あー これです。」と私が独り言のようにいうとその方はぽかんとしていた。

それまで歯定神社の祭神がどなたか知らなかったのだけど
やはりというかこの歯定神社の由緒によると少彦名神・大己貴命が祭神だった。

ここは一般的には中山大塚古墳の御旅所坐神社 または大和稚宮神社と云われている。

話が前日の戻るが三輪に参拝登山した後にすぐそばの素盞鳴神社に初参拝した。
ここの由緒書きには境内の素盞鳴神社・白山神社・薬師堂の由緒がそれぞれ書かれていて
そこの白山神社の項に「この地域は、古くから加賀白山の信仰も篤く白山大神を祀り、
祭礼は氏神社と併せて祭祀しています。庚申、愛宕、金毘羅大権現は
「歯定さん」といって歯痛に霊験あると信仰されています。」となっていた。

庚申、愛宕、金毘羅大権現をひとまとめにして歯定さんと言っているが
それぞれの石柱が立っていてあまりにもアバウトな括り方となっている。
たぶん由緒等が消失してしまってここで歯定さんを祭っていたとしか分からなくなってしまったのだろう。
私見ながらこの歯定さんは御旅所坐神社の歯定神社と同じ祭祀であろう。
もともとは社があったのが白山神社にとってかわれたか社が壊されたのか
ここでは白山神社が歯定神社そのものなのかは不明である。
いくつかの地域で白山神社が歯の神様と云われるようになったのは江戸時代からと考えられるが
まさかこの素盞鳴神社で白山神と歯の神が混同されたのがきっかけと考えるのは飛躍しすぎであろうか?
橿原市慈明町の天神社の境内にある「はんじょうさん」=歯定さん?は祭神が白山神となっている。
ただ歯定神社の本来の祭神がもともと少彦名神とするなら
素盞鳴神社の薬師堂がもとは歯定神社と云われていたではなかろうか。

この件は今後さらに調査していきたい。


ところで京都にも以前 歯神之社(はがみのやしろ)と呼ばれる歯の神社が存在していた。
箸をそなえて拝むと歯痛が治るといわれており古来より信仰篤い神社であったようだ。
由緒は、菅原道真を慕っていた筑紫安楽寺の僧「寛算」が
道真亡き後にあとを追い自害し、しかも自らも雷となり祟ったという話があり、
藤原時平らの滅亡を全て見届けた後に
雷となった寛算は落ちて石になり、その石が寛算石と呼ばれるようになったそうである。
その寛算石を祀る神社が歯神之社ということである。
今も寛算が自害した6月26日は寛算の怨念のために必ず猛暑となるそうで
六月廿六日寛算が日」といわれている。
しかしこの場所は社が取り壊され今は民家となっている。祟りを恐れずに住む人の無事を祈りたい。


少彦名神と事代主神   20070519記載

大國主命が武甕槌神に国譲りを迫られた際に事代主命に相談している。
これは事代主命が継承者だから事代主命に相談したということなのだろうか?
この疑問に関して筆者は「秀真伝」で事代主命が「クシヒコ」と呼ばれている事が気になる。
「クシの神」とは少彦名神のことであるが
大國主命の子である事代主命は少彦名神が去ったあとに少彦名神を降ろす霊媒となって
神の意思を伝える巫覡(ふげき,かんなぎ)的な存在ではなかったかと感じている。
事代という意味は言代であり神の言葉を寿ぐということであろう。
それで大國主命は事代主命を通して少彦名神の思いを聞いたのではないかと思う。
あるいは事代主命は少彦名神を信奉する一族の娘と大國主命の間の子で
事代主命はこの少彦名神を信奉する一族を束ねる立場にあったのかもしれない。
いずれにせよ事代主命は少彦名神の意思を継いだからこそ「ゑびす神」とされたのであろう。

※出雲の美保関町に「延喜式」にみえる美保神社がある。
全国のゑびす社3385社の総本社となっているが、
この地の首長が事代主命を祭祀していたものが、
大國主命を祭祀する一族に取り込まれたという説もある。

この少彦名神を信奉する一族であるがいくつかの候補がある。
その一つは秦氏系であろう。
豊中市服部天神社 伊賀一宮の敢国神社などにその痕跡が残る。

あと近江安土の沙沙貴神社で沙沙貴山君(狭狭城山君)が少彦名神を氏神と仰いでいる。
つまり大彦命に始まる佐々木氏系で近江源氏に繋がることになる。

また阿曇氏(安曇氏)は海人族であり志賀島の志賀海神社をもともとの氏神社とするが

祖の阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子であることもあり綿津見(わたつみ)の神を祭祀している。
この綿津見の神であるがわたつみとは海神(わたつみ)のことであり阿曇(安曇)より派生した言葉と考えられる。
綿津見の神はつまり海の神ということを表しているのであるが、
この海の神とはどういう系統を持つ神なのかということを考えたい。
志賀島のすぐ隣には宗像氏がおり三女神を海運の守護として祭祀している。
この宗像三女神は道主貴(みちのぬしのむち)とも呼ばれるが
この道主貴は筑後(久留米)の水沼君がもともと祭祀していたとも言われる。
しかしながら天照大神と素盞鳴尊との誓約(うけひ)で生まれた三女神であれば直接的な海神とは言いがたい。
ただ伊邪那岐命は三貴子の素盞鳴尊に海原を治めるように言っているからそこから派生しているのであろう。
記紀によればイザナギが黄泉から帰って禊をした時に綿津見三神と同時に住吉三神も生まれている。
海を渡って二つの部族がやってきたのであろうか?
あるいは先の素盞鳴尊と合わせて三つの海人系部族が日本に渡来しているのかもしれない。
話を元に戻すとこの綿津見神の系統であるが
日本書紀ではわたつみの神を少童命と記載している。
この少童命と書いてわたつみと読ませているが、
この少童命と少彦名神との繋がりを筆者は強く感じている。

その後の調査で福岡県津屋崎あたりに少彦名神が多数祭祀されていて
古代からの継承を感じている。
この件は非常に重要なので別項で報告したい。


※記紀によると天孫の瓊瓊杵尊は
山の神である大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘の
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)神と結婚して彦火火出見尊を生んでいる。
彦火火出見尊が竜宮城で綿津見の娘の豊玉姫と結婚して産んだ子が鵜葦草葦不合命である。
鵜葦草葦不合命が豊玉姫の妹の玉依姫と結婚して生まれたのが神武天皇である。
これは天皇家の血の中に大山祇神を信奉する一族と綿津見神を信奉する一族の血が交じった事を
表現しているように思えるがこの一族は共に阿曇氏であると云われる。
阿曇氏は日本中に広がり瀬戸内海に位置する愛媛県大三島町の
総本山三島神社である大山祇神社の創建にも関わっている。

日本アルプスの総鎮守 穂高神社も安曇系穂高氏が創建している。
実際のところは大山祇神を信奉する一族がもともといてそこに安曇一族が入って来たものと
考えているが天皇家となる一族と阿曇氏(安曇氏)一族は切り離せない繋がりがある。



少彦名神と薬草

枇杷の種の薬効と少彦名神について」
枇杷や梅の種の中にはアミグダリン(レートリル B17)という成分が含まれ
現在では癌の良薬と云われている。
またこの効能としては免疫力を強め鎮痛殺菌作用があるとも云われており
古来より薬として使われていた。
少彦名神は薬神であるが、この種の作用は少彦名神由来と信じられ
枇杷や梅の種を「天神さん」と呼んで大切に扱ってきた。
ところが祟り神の菅原道真公が天神名を乗っ取ると
種の「天神さま」も良薬から毒性の強いシアンが強調され
毒物として敬遠されるようになってしまう。

筆者も幼少のころは梅の種は毒と言われて食べてはいけないものと教えられてきた。
現在では種2〜3個では科学変化で発生する青酸ガスも危険レベルには
ならないことが分かっている。
それどころか、良薬として癌予防に効能が非常に顕著であり
健康食品としても薦められる。

少彦名神の神霊が宿るとされる種の効能が見直されてきたことは喜ばしい限りである。

他には少彦薬根(すくなひこなのくすね)の古名を持つ石斛(せっこくセッコク)がある。
薬用にされることから記紀神話の医療神である少彦名命の名前がついたと言われている。

花の開花時期は5月下旬から6月初旬であり、ピンクの花を咲かせるらしい。
石斛は現在絶滅の危機にさらされている。効能は健胃、強壮作用となっている。




少彦名神から派生したゑびす名の夷草(エビスグサ)も薬草である。
決明子(ケツメイシ)とも云われ近年は歌手クループ名で有名となった。
決明は明を開くという意味があり、視力回復の効果があるといわれるが
毒出し民間薬草であり主成分はアントラキノン誘導体などで肝臓の働きを強化する。



少彦名神はゑびすさんとも呼ばれるがこのゑびすさんの腹部に
葉が三つ柏(カシワ)の神紋が付けられているものをよく見かける。
「三つ蔓柏」紋は恵比寿紋と呼ばれているそうである。
ところで日本で柏の葉といえば柏餅を思い出す人が多いのではないかと思うが
古事記を読むと酒器として使われていることが分かる。
天皇聞看豊明之日、於髪長比売令握大御酒柏、賜其太子  (『古事記』中巻応神天皇)
酒の神様といえば少彦名神でここからゑびす神に柏の神紋が付けられた可能性を感じていたが
実は中国では柏は、日本でいうブナ科の落葉樹の柏とは全く違う植物であり
柏と書いてハクと読みこの柏は薬草として用いられている事がネット検索で分かった。
『本草綱目』には薬として「柏」の実や葉などを用いたことが記されているそうである。
なかでも「柏実」と「柏葉」はそれぞれ『神農本草経』と『名医別録』から記載されており、
現代までずっと薬用され続けている。
中国南方では『荊楚歳時記』の成立した六世紀頃に
すでに「柏」を酒に浸して飲む習慣があったとの事である。
中国においては、天子や大夫の椁(棺の外側を覆う枠)が「柏」で作られていたそうだ。
「栢椁者謂為椁用柏也、天子栢、諸侯松、大夫栢、士雑木也」
天子や大夫のみ柏が許されそれ以外の者では諸侯は松で士は雑木となっている。
中国で言う柏は材に良い香りがありかつ腐敗しにくいという特徴がある。
こうして邪気をはらい長寿をねがう習慣として民間で取り入れられ続けられていることは
柏葉の香気や性質を好ましいもの、神秘的なものとして感じたということであろうと推測される。
「柏」の薬効を信じ、神仙や不老長寿に憧れた人々が、
さらに複雑な調合法で「柏」を薬用したという話もあるとのことだ。
薬神の少彦名神と中国の薬草の柏(ハク)との繋がりがあったのではないかという気がする。


少彦名神と天之羅摩船

古事記によると少彦名神の登場の最初の記載は以下のように書かれている。
『故大國主神坐出雲之御大之御前時。
自波穗乘天之羅摩船而。内剥鵝皮剥。爲衣服。有歸來神。
爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白不知。


少彦名神は天之羅摩船(あめのかがみぶね)という船に乗って到来したということであるが
天之羅摩船とはいったい何なのか?
まず「天の」とつくというと天磐船 (あまのいわふね)を思い起こさせる。
天磐船については先代旧事本紀によると
『饒速日尊禀天神御祖詔。
乘天磐船而天降坐於河内國河上哮峯。則遷坐大倭國鳥見白庭山。
所謂乘天磐船而翔行於大虚空。巡睨是郷而。天降坐矣。即謂虚空見日本國是歟。
饒速日尊便娶長髄彦妹御炊屋媛爲妃。令任胎矣。未及産時。
饒速日尊既神損去坐矣。而不復上天之時矣。
高皇産霊尊詔速飄神曰。吾神御子饒速日尊所使於葦原中國。』

ここにははっきり饒速日尊が天磐船に乗って天より降臨したことが記載されている。
石上神宮での朝の祝詞でも
「饒速日命天磐船に乗りて河内國河上哮峯に天降坐り...」とあげられていたのを思い出す。
先代旧事本紀が偽書であれば、ここの記載は少彦名神の見参部分を参照したものと考えられるが
そうでなければ少彦名神の乗る天之羅摩船は天磐船と似た天海自在の船ということであろうか?


実際のところ少彦名神が海から来たのか空から降臨したのか良く分からない。
自波穗というのは海の白波のことであり、これと船が対応するし
少彦名神が去った後に大物主神が海を照らし出して到来した神ということからも
同じく海から来た「稀人神まれびと」とされているが安易な断定は避けるべきかもしれない。
古事記では少彦名神を出雲系といわれる皇産霊尊の子としているので
天からの降臨では都合が悪かったのかもしれない。

少彦名神を祭祀する京都五條天神の宝船色紙では嘉賀美能加和宝船とある。
この羅摩=嘉賀美=かがみであるが、ガガイモの実のサヤのことと云われている。
ガガイモは芋では無いが漢方では滋養強壮と精力増強の効果があるということだ。
もともとガガイモはカガミと呼ばれていたと考えられるが、
このカガミとは鏡を意味するものであろうがなぜ鏡と読むのか、そこに少彦名神の神格が関与するのか?
現在のところ不勉強で分からない。
またこのガガイモの種には綿があり空を舞うのも気になる。
それに少彦名神と饒速日尊には高皇産霊尊の子供であり船で到来したという
共通点があることも非常に気になるところである。



京都五條天神社の嘉賀美能加和宝船 ガガイモのサヤ




少彦名神とゑびす神

なぜ少彦名神が「ゑびす神」といわれるようになったのか?
調べてみたけど残念ながら明快な解を見つける事ができなかった。
そこで自分なりの見解を記しておく。


もともとの古来からのゑびす神は「蛭子ヒルコ神」のことである。
故に蛭子ヒルコをゑびすとも読むようになった訳である。
蛭子ヒルコとは海に流され岸に流れ着く「稀人神」であり
蛭子神は海の恵みと航海の安全を与える神として信仰されている。
ただこの時代の蛭子神の姿は今見られるような大鯛と釣り竿を担ぐ神ではない。

さて他のゑびす神の候補に
海からたどり着く神として少彦名神もいる。
また出雲にて天津神に國を捧げる為に海に身を投げた伝説を持つ
釣り好きな(少彦名神の神託を聞く巫である)事代主命をゑびす神として祀るところも多い。

少彦名神は医薬に医酒に温泉の神であり岩に寄り付く神であるが
姿は一寸法師の原型とも云われる。

京都五條天神から大阪道修町に勧請した少彦名神が
日本薬祖神として江戸時代に祭祀されるようになった。
この道修町には江戸時代より漢方薬店が並んでいるが
中国から輸入される漢方薬の箱の結びに「てぐす」が使われていた。
この糸は半透明でまさに釣り糸にうってつけであった。
それで大阪の薬問屋だった「広田屋」がテグス商として売り出したそうである。
これは少彦名神の神徳だということで次第に漁民にも少彦名神信仰が広まりはじめる。
この時に大鯛を釣りあげるゑびす神の原型が出来上がったようである。
大鯛が異様に大きいのは少彦名神が小童神であることを表している。
てぐすねを引いて待つは、魚が掛かる事を今か今かと待つ意。
ヤママユガの幼虫から「てぐす」は作ったそうである。
そしてこのヤママユガの一種にクスサン(ショウサン)という種がある。
樟蚕と綴るが樟(楠)の木に巣食う蚕である。
このクスサンより「てぐす」を作りだしている。
これゆえに少彦名神=釣りの神=養蚕の神で神木が樟(楠)になったものと思われる。
また樟ショウの読みがクスとなったのは、
薬神としての少彦名神の薬の読みのクスリ
又は、醫(医)の読みのクスシから転用された可能性も考えられる。
樟脳は樟から取り出せるが樟脳が薬であることからクスとなった説もあるが
樟脳は医薬としては毒性を持つので疑問である。
さて大國主命とペアなのは少彦名神であるが
大國主命の子である事代主が巫として少彦名神の神託を受けていたと考える。
宮中の御巫八神の一つにもなっている事代主であるが
事代主が天津神に出雲を捧げる為に海に沈んだ伝承にちなみ
海の荒れを鎮めることを事代主に願う信仰が
宗像系の海の信仰や綿津見神や住吉の信仰とは別に生まれている。
それで少彦名神がゑびす神と祭られると同時に事代主もゑびす神となっている。

従ってゑびす神の単体神は蛭子神のことで
七福神のうち「ゑびす大黒」のゑびす神は少彦名神で神徳は繁盛と豊漁。
海の荒れを沈め航海安全を願うゑびす神は事代主神ということになる。


少彦名神と大彦尊20080330

伊賀國阿拝郡の式内社で伊賀の一宮である敢國神社には
孝元天皇の皇子である大彦命と少彦名神が祀られている。
ところで大彦と少彦との対比であるが、
どういう繋がりがあったのか?あるいは単なる偶然か不思議である。
大國主命と少彦名神が同時代とすると大彦命はかなり時代が下がる。

しかし孝元天皇の皇子で長男の大彦と末子の開化天皇の間に、
少名日子名建猪心命(すくなひこなたけいごころのみこと、少彦男心命) がいる。
原田常治著の上代日本正史 P84の雀部臣系図には
その名が少彦名許士尊となっている。
まさに大彦命と少彦名神が兄弟であるような記載とも感じられる。
大彦命の後胤の佐々貴山君も沙沙貴神社で少彦名神を氏神として祭祀している。
大神霊の少彦名神と対応する実在人物としての候補の一人であろう。
少彦名神を調査していていつも後ろに出てくるのが武内宿禰だが

武内宿禰は第八代孝元天皇の孫とも云われているが
だとすると 武内宿禰は少名日子名建猪心命の子供である可能性がある。
神功皇后の子供の応神天皇は武内宿禰との間に出来た子供と考えているが、
だとすると神功皇后が各地で少彦名神に祈っているのも頷ける。
熊本市の東の外れの沼山津に少彦名神を祭祀する竹内神社があるが
この社を祭祀した人物はそのことを知っていたのだろうか?



少彦名神と神仙道

神仙道は幕末に平田篤胤によってその世界観が確立された。
この中で道教の神を日本古来の神と対応させている。

盤古(ばんこ)=皇産霊神
伏羲(ふっぎ)=大國主命
青童君(せいどうくん)=少彦名神

また幕末に島田幸安(しまだゆきやす)という医者がいたが
仙界に出入りし赤山仙界で清浄利仙君に師事し
少彦名神直伝の薬の調合を行い「神力諸薬調合所・玄江舎」という看板を掲げていたという。
彼の仙縁は嘉永4年2月7日の明け方に少彦名神系の白髪の翁が現れたことに始まる。
この少彦名神系の神霊は薬師菩薩とも青真小童君とも云われている。
これは平田篤胤門下の国学者参沢宗哲(みさわむねのり−参沢明ともいわれる)の
「幸安仙界物語」(幽界物語)に記載されている。

※赤山とは阿蘇山のことである。


同じく幕末に宮地神仙道を確立した宮地水位と呼ばれる巨人がいる。
本名は堅磐(かきわ)といいその父の常盤とともに神仙界に出入りしている。
この宮地堅磐の道号が水位であるがこの道号は22歳の時に少彦名神から賜ったという。
この親子は四国土佐郡潮江の菅原天満宮の祠官であるが
菅原道真と少彦名神の関係については私見を冒頭に記した通りである。
さて水位の記録では大山祇神のとりもちで少彦名神に面会出来たとある。
この水位が記したものが「異境備忘録」である。
水位によると少彦名神は道教でいう「
東海大神仙王大司青真小童君東海大司命小童君)」
別名では「
東華方諸青童君」と云われているという。
宇宙中心である北極紫微宮を天御中主神の元で管理しているとのことである。

また神仙道本部第四代斎主であり玄学研究家の清水宗徳氏によると
宇宙中心である北極紫微宮とは別に地球霊波圏内の神界の一つに紫府宮神界があり
ここには少彦名神の青華宮があるとのこと。
この青華宮にて10月9日から11月8日にいたる間に
少彦名神により「司命簿録転動の儀」というものが行われるそうである。
人の一年間の行いにより寿命を延ばしたり縮めたりの改定を
司命簿録に書き込むという儀式との事らしい。


※北極紫微宮は日本で言う高天原神界のことといわれている。

この「幸安仙界物語」(幽界物語)と「異境備忘録」は八幡書店で購入可能である。
http://www.hachiman.com/books/89350-174-7.html

神仙道にいう日本神界の神と道教の神 一覧
太上大道君=伊弉諾尊
東王父=大國主命
西王母=須勢理姫神
暘谷神仙王=事代主神


あと神仙道につながる者で大本教を脱退して天行居を組織した友清歓真がいるが
彼は大正11年より宮地水位から霊啓を受けている。
昭和6年より禁足の行を行い山口県防府市天神町の自宅から21年間外に出なかったそうであるが
この友清歓真の自宅がある防府市天神町は天神町というだけあって
自宅そばの参道の北に防府天満宮がある。

防府天満宮は菅原道真が亡くなったすぐ翌年の延喜2年(904年)に出来たという
日本でも最も古い道真を祭る天満宮であるとのこと。
ここにも菅原道真と少彦名神の天界での繋がりが感じられる。


少彦名神は日本神界では大國主命との国造りのあと姿を消したといわれ
今日、祭祀している神社も大半が天満宮に取ってかわられた経緯があるが
その大いなる霊験は神仙界にもたらせられている事が分かった。
しかしもともと天孫系でありながら大國主命に協力した国造りの神であり
国家安寧を願へばその験は比類無い神であれば
今一度その少彦名神の神霊を招魂し祈願することが
日本国の未来に光をもたらすことになると筆者は信じている。







吉田一氣の


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