道君首名公の玉名での足跡調査記



道君首名公の活躍は小天の天子宮に由緒と祭祀が完璧な形で残っているが
ここより程遠くない玉名市で道君首名公の足跡を調査してきた。

道君首名公は肥後では味生池を作りそして熊本霊ラインを構築しているが
その後の調査で坪井川を交易の湊として整備したのではないかと判断している。

道君首名公は溜池だけでなく柳川の水路等、筑後肥後で
広大な範囲にわたって灌漑治水事業を行っている。
初代国司としての役割が律令の公布と中央集権への布石であるとすれば
任地での農畜産業を振興しそれを都に運ぶ港湾整備も必要となる。

玉名市を流れる高瀬川は1589年〜1602年に掛けて加藤清正が掘替工事を行い
菊池川流域の米の集積及び大阪への積み出し湊として整備している。
ここにも道君首名公の足跡があるのではないかと考えて現地に足を運んだ。

見て回る限りにおいては道君首名公の足跡を発見することは出来なかったが
まず天神社 天満宮の数が地域の規模に対して多いことが驚きであった。
それらはほとんどの祭神が菅原道真公となっている。
高瀬地区だけでも9つはありそうである。



高瀬七天神中一番古いといわれる高瀬天満宮は
1074年に藤原則隆が大宰府安楽寺天満宮から勧請しているとのこと。
この天神社からは、少彦名神 大國主命祭祀は消えているが
ゑびす講のようなものは残っているようだ。
商店街の仏具店によるとゑびす像を持ち回りで祭祀しているとのことだった。

一番右にゑびす神が祭祀されている。



そしてこの藤原則隆が古来よりの豪族である日置氏を滅ぼしている。
この日置氏については後半で考察していきたい。


地図で確認していて玉名市の郊外に拝高天神社というのを発見した。
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.33.7.277N32.56.11.863&l=10
気になるので行って見るとここは菅原道真ではなく探していた少彦名神祭祀であった。






拝高天神社は肥後国誌に記載されていることが
祭神名を失わせない結果となったのであろう。
天神社で少彦名神一神のみの祭祀であることに感動した。
是非地域の信仰篤く神霊の降臨する社となしてほしいものである。

実はこの現地調査以降 1年半が経過したのだが
どうしてもこの玉名での道君首名の偉業を明らかにせねばならない使命を感じて
再度調査の糸口を探した。

偶然、車で探索していて市の歴史博物館を見つけ寄ってみた。
そこに入館する早々に掲示板の張り紙に道君首名についての記載を見つけた。
そのB4サイズの紙の道君首名の項には
「玉名郡衛の整備や立願時(廃寺)の建替えに影響を及ぼした人物であり
稲荷山古墳墳頂部の瓦葺きの建物跡は首名の業績を称え彼を祀った祠の跡と
いわれています。また保田木神社や砂天神には彼が祀られています。」とあった。

それで玉名市史及び玉名郡衛調査記を見せていただいた。
それによると現在の繁根木川(石貫川)は以前は氾濫をたびたび起こし
水害に地域住民は悩まされていた。
この玉名牟田の地を乾田にするために川の掘り替えを行っているが
この時代にこれだけ大規模の灌漑治水事業を行えるのは
個人(豪族)の力だけとは考えづらく公的な事業であったはずである。
だとすると道君首名の功績と考えるのが自然である。
またこの治水において上流部にあたる高瀬の保田木台地に建てられた
保田木神社に道君首名公は祀られている。
ここは玉名牟田を見晴らすことが出来る一番の高みである。
またその下流側になる繁根木の出口にも道君首名公は祀られている。
この上流下流の重要地点に祭祀されていることからも
道君首名公の功績と考えられる。

同時に発掘調査で玉名郡衛の整備及び立願寺の立替で七堂伽藍が
造られた時代は8世紀初頭と分かっているが、
ほぼ同時進行であったことも用いられた瓦等で分かっている。
この瓦には大宰府府楼で利用された鬼瓦と同笵の鬼瓦と
老司一式軒丸瓦が使われている。
これが可能となるのは大宰府に対して力のある者だけであり
道君首名公としか考えられない。
この瓦であるが繁根木八幡宮の裏に全長110mの前方後円墳がある。
この古墳は稲荷山古墳と呼ばれているがこの古墳墳頂部から
立願寺瓦と同じものがかなりの数発見されている。
ということは8席初頭にここにも祠堂が建てられたことになるが
日置氏は金比羅山の磐座と立願寺を建てているので
ここに祠堂を建てたのは道君首名公を祀るためと考えられる。



ここで道君首名公を祭祀している保田木神社と砂天神に
参拝してきたが保田木神社では祭神が確認出来なくなっており
砂天神は市河原天満宮となっていた。

ここまで道君首名公の偉業が隠されてしまった裏には
道君首名と日置氏との強い繋がりがあったためであり
日置氏を亡ぼした藤原則隆が天満宮祭祀により祭神を
隠してしまったと考えられる。

ただ玉名では神社の鳥居あたりに左右に祠を設け
ゑびす大黒様を祀っているが
これが道君首名公の小天での疫病平癒祈願の霊験に
あやかっての事であるのは明白である。
またこの地域で左右の鳥居に忌竹を立て注連縄を張るのも同じ理由と思われる。


道君首名公を祀っている砂天神社 (玉名市史による)


砂天神社内の石像



玉名の日置氏であるが、渡来人の日置部といわれた一族は
金属鋳造集団であり、玉名はかつて鉄を生産していたと言う話もある。
渡来系ということで調査した結果では高句麗系の可能性が高い。

もし高句麗系だとすると同じく高句麗系と考えられる道氏とは
同じ信仰を持っていたことも考えられる。
だとすると日置氏と道君首名公とはいい協力関係にあったのではなかろうか?

玉名の日置氏の氏神は疋野神社であり祭神は波比岐神(はひきの神)となっている。
つまり疋野神社は波比岐之神社であろう。
ところで玉名温泉は1300年前に疋野長者が発見したことになっている。
この疋野長者の墓は疋野神社内にある。
つまり疋野長者=日置氏であり氏神として波比岐神を祀ったのであろう。

1300年前といえば道君首名公の時代である。
ここに温泉神でもある少彦名神との繋がりを感じる。



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