加藤清正公と八大龍王神




中央構造線の末端となる八代市と八大龍王(八大竜王)の関係についてを「熊本霊ラインと中央構造線」で考察し
熊本での八大龍王祭祀の歴史を「八大龍王社探訪」で述べたが、
このことにより封印が解けたのか、健軍神社に摂社「矢城神社」が建立された。
さてこの矢城神社であるが矢城神社とは「やつしろ」とも読めるように八代(はちだい=八大龍王)の信仰を隠語で表現している。
八代より水俣に近い芦北町と水俣市との境界に矢城山があるが、ここと縁があるのだろうと考えられる。

ネット検索によると矢城山には矢城神社があり
ここには中央に矢城山の山神、右に稲荷大明神、左に青龍龍神を祀るそうである。


健軍神社の摂社に矢城神社が建立されたので新しい展開があるのだろうと待つこと数ヶ月したある日のことであるが、
「横手天満宮(下馬神社)」の前を車で通っていて矢城神社につながる氣の感応を受けた。
それでそのあたりを回ってみて六角堂観世音本覚寺という寺を見つけ出した。

由緒書きによると加藤清正の側室、本覚院月心日円(菊池武宗の娘、川尻殿)の菩提を弔う寺ということだ。
加藤清正公は熱心な法華経信者であったが、その縁で日蓮宗となっている

ここの寺の裏手にお堂があり、どうぞお参りくださいと書かれているので、ずかずかと上がっていくと
そこに五穀豊穣の最上位経王大菩薩、安産守護の法喜大妙神、商売繁盛の基吉大妙神が祀られていた。

経王大菩薩法喜大妙神、基吉大妙神がどういう系統の神仏かというと最上稲荷系ということになろう。
最上稲荷で祭られるのは最上三神とも呼ばれる経王大菩薩と八大龍王尊と三面大黒天となっている。
岡山の日本三大稲荷の最上稲荷(さいじょういなり)は、
天平勝宝4年(752)に報恩大師が八畳岩でご本尊の最上位経王大菩薩を感得されたことに始まるとされるが、
この地にはもともと竜王山があり竜神が祭られていたようだ。
また創建は日蓮生誕よりもはるかに古い。
六角堂観世音本覚寺のホームページには、裏山に安産守護の龍神「法喜大妙神」を祭祀と書かれているので
「法喜大妙神」が八大龍王に当たるのは間違いなかろう。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/s-uekawa/sub7.htm



最上稲荷社写真



問題は加藤清正公自身が八大龍王に対する信仰があったのかどうかということだ。


加藤清正公が埋めた味生池の龍は今でこそ悪龍に貶められているが、
道君首名公がここに味生池を作り勧請した龍神は八大龍王神であると「天台宗と日吉神社の謎」で記載した。


加藤清正公がなぜこの池を埋めそしてこの八大龍王をどう扱おうとしたのかは、非常に気になるところである。

加藤清正公と八大龍王を結びつける伝承を調査中だが
肥後の昔ばなしに加藤清正公が御船川の河川工事をした際に八頭龍が出現して人夫が恐れるというので、
「八頭大龍王」を祭祀したという伝承がある。

http://www.evergreen-21.com/minasse/oldstory/hachitouryuu.html
またこの「八頭大龍王」を祭祀する祠というものも立て替えられてはいるが現存する。
また日蓮が鎌倉で雨乞いをしたという話がこの昔ばなしで出てくるが
それは龍王山霊光寺(れいこうじ)のことと思われる。

1271年(文永8)の干ばつの際、日蓮上人が法華経を唱えて雨を降らせたと伝わる。
境内には雨乞い池とよばれる田辺ケ池があり、本堂脇に日蓮雨乞いの像が立つ。

この時に日蓮が感応したのが八大龍王で五月には八大龍王例大祭も行われているということだ。
また日蓮に関しては千葉県市川市の法華経寺にも日蓮聖人開眼の八大龍王が祀られている。

こう考えるとそもそも八大龍王とは法華経に出てくる天竜八部衆であり
当然、日蓮も加藤清正公も信仰はあったということになる。

だとすると独鈷山の八王社は味生池を埋め立てるにあたって清正公が祭祀したのかもしれない。

清正公は稲荷神は熊本城稲荷神社と花岡山に戸坂稲荷神社を祀っている。
そして八大龍王も祀っているとなると最上三神のひとつである三面大黒天も
どこかで祭祀していたことは間違いないはずだ。


加藤清正公が祭祀した八頭大龍王社


伝承 むかし話  参照添付 

御船盆地を流れる御船川は、上島で緑川といっしよになり、有明海に流れこんでいます。
この御船川は、昔は、今城、小坂村の間を北に流れ、屋形川と合流していました。
そのために、当時の秋津・大島・田迎・西村などの村人は、
大雨が降るたびに川の水がはんらんするので、たいへん困っていました。
そこで加藤清正公は、辺田見平をかんがいし、御船原沿いに新しく川を掘って、堤防を築くことにしました。
ところが平地や丘に新しく川を作るのですからそれは大変な仕事でした。
やがて、工事も進み、小坂村までやってきました。今度は今までのように平地を掘るだけでなく、
丘を削り取って掘り進まねばなりません。川沿いにある甘木部落などの人たちは、毎日のように部落総出で働きに出ました。
ところがある日、せっかく築きあげた堤防がたった一晩の大雨のために、あっという間に流されてしまいました。
それでも気をとりなおし、前よりも頑丈な堤防を築きました。
が、それでもやはりだめでした。
大雨が降るたびに、堤はひとたまりもなく洗い流されてしまうのでした。
困りはてた村人たちは、吹に人柱を立て、 堤防の作り方にも工夫をこらしました。
竹を編み、その中に赤土を練ったものを固くつめて、頑丈な堤防を築いたのです。
ところが不思議なことに、今度は、せっかく築きあげた堤防の中を流れる川の水が、
清正公が作業を指揮するために座った床几のマツのあたりから下流にかけたところで
急に消えうせてしまうようになりました。
村人達は、不思議さに驚くよりもがっかりしました。
せっかく堤防が出来上がっても、田をうるおす水がなければなんにもなりません。
肝心の水がどこへ消えうせるのか、跡形もなくなるのです。
ある寒い夜のことです。清正公は、不思議な夢を見ました。
あれほど丈夫に作られた堤防が、今にも崩れようとしているのです。
村人達が、死に物ぐるいになって走り回っています。そのときです。
どうっというすさまじい地鳴りとともに、堤防は、ぱっくりと破れました。耳をつんざくような水音。
村人達の黒いかげが濁流に浮き沈みしています。
「わあっ。」と叫ぶ者がいました。
声のした方をふり向くと大きな龍、うず巻き流れる水の中を、ゆうゆうと水煙をあげながら泳いでいます。
八つの頭、鏡のようにきらきら光る目玉 。かっと開いた口は、今にも火を吐そうな勢いです。
やがて龍は、八つの頭を水面 高くはね上げたかと思うと、川底深くもぐりこみ、それっきり浮かび上がってきませんでした。
ふっと夢からさめた清正公は、さっそく家来に川向こうの山を探らせました。
すると、川向こうの迫田あたりで、夜中に青白いあやしい光を見たという者、
また、山中では、大蛇を見たという者が現れたのでした。
清正公は、夢とあやしい光や大蛇を見たという者の話から、ふと思いあたるものがありました。
水が消えうせてしまうのは、水の神の怒りにふれているからに違いないと思いました。
そこで、清正公は、日蓮上人が鎌倉で雨ごいの祈祷をしたときに祈ったという
水の神、八大龍王にちなんで、「八頭大龍王」と名づけたほこらを迫田に建て、
熱心にお祈りしました。この後、御船川には再び豊かな水がよみがえり、
村人たちは安心して田畑を耕せるようになったということです。
村人たちは、このほこらを龍王さんと呼び、大正時代までは、日照りになるとほこらで雨乞いの行事をやっていましたが、
今は二宮神社の境内に移され、雨ごいをすることもありません。
後の小坂村八龍の地名は、清王公の夢の中に現れた龍にちなんでつけられた名前だと言われています。
おしまい。




加藤清正公と三面大黒天

加藤清正の側室、本覚院月心日円(菊池武宗の娘、川尻殿)の菩提を弔う寺に
経王大菩薩、安産守護の法喜大妙神、商売繁盛の基吉大妙神が祀られていて
これが最上三神とも呼ばれる経王大菩薩と八大龍王尊と三面大黒天に
対応するのではないかと考察したが、
では清正公は熊本で三面大黒天を祭祀していたのだろうか?

加藤清正公は豊臣秀吉に育てられているが、
その秀吉が特に信仰していたのが三面大黒天であるということはよく知られている。
例えば、秀吉そして正室「ねね」の菩提寺である京都の高台寺圓徳院に
今も三面大黒天が祀られているそうである。
http://www.kodaiji.com/entoku-in/see/sanmen.html
また京都 方広寺(高さ50mの大仏が安置されていた。)にも
秀吉の持仏大黒天像が祀られている。

主人秀吉が信仰し、日蓮宗でも三面大黒天信仰があったとなると
当然加藤清正公も祭祀していたと考えるのが自然だと思える。

ところで熊本市新町の段山市電停近くに三面地蔵というものが祀られている。
この地蔵は加藤清正公由来との伝承がある。


また清正公は、熊本城内に三宝荒神を祀っていたという話がある。
三宝荒神も三面の姿で現せられることが多いと聞く。
日蓮宗では「普賢三宝荒神」を祀っているようであるが、
日蓮聖人の『御義口伝』に「三宝荒神とは十羅刹女のことなり」とある。
日蓮信者である清正公が三宝荒神を祀ったとしてもおかしくは無いが、
三面地蔵や三宝荒神は祭祀の伝承が残っているのに
熊本の地で三面大黒天を祭祀していた記録を筆者は見つけ出していない。
ただ清正公は熊本城下に日真を迎え瑞龍院を創建(後の本妙寺)しているので、
ここで三面大黒天を祭祀していたことを想像はできる。
現在場所を移動した本妙寺では大黒祭は行われているが
三面大黒天についての話を聞いたことが無い。
いったい清正公は三面大黒天を祭祀していたのであろうか?
祭祀していたとすればそれはどこでだろうか?

この件に関しては三面大黒天が三宝荒神にすり替わった可能性も考えている。




三面大黒天のイメージ

三面大黒天像 三面大黒天像
英信寺 三面大黒天像 伝 弘法大師作 本行寺 三面大黒天



三面大黒天以外の三面像について

熊本市段山の三面地蔵 清正公由来というが時代がくだっているように見える。 三面四臂石仏 高千穂
三面六臂石仏 菊池市高瀬 三面六臂石仏 菊池市高瀬








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