凡夫吉田の備忘録


2008/04/17
大祝詞の祓戸四柱の神は瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売となっている。
しかしこれをエレメントとして捉えると、本来なら火、風、水、土となると思う。
火で燃やし、風を送り火力を強めそして灰を飛ばす。
まだ残ったものは今度は水に溶かしそして流し、それでも残ったものは土に埋めて祓うものだと認識している。
ネイティブアメリカンの儀式らしいが、セドナ産ホワイトセージを燻して浄化するスマッジングという浄化の方法がある。
これは、アワビの貝殻に砂を入れてその上でホワイトセージを燃やし、鳥の羽で風を送るというものだ。
貝殻は海と水の象徴で砂は大地を表しセージの煙は火でフェザーは風である。
ところが祓戸四柱の祓いは、意味を探ると、
瀬織津比売   -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す。
速開都比売  -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主     -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ。
速佐須良比売 -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失わせる。
川から海へ流し海から海の底へ落としそれを根の国底の国に吹き飛ばし何処とも知れず放り散らして、
跡形もなく消滅させるという。
水で流すばかりで火で燃やす要素がなくピンとこない。
この大祓祝詞は中臣氏由来のものであるが、その血統に藤原不比等が存在することを考えると
ある理由で改ざんされていると考えるのが妥当と判断する。
火のエレメントと水のエレメントに象徴される神を古代人は
縄文の時よりそれぞれ縄文神として祀ってきたのであろうが、
火の祭祀はあまりのも祟るので触れたくなかったのかもしれない。
火の神である迦具土神は父伊邪那岐命によって生まれてすぐにその首を切り落とされてしまう伝承となっている。
そのために祟るのかは不明であるが、何か秘密が隠されているようだ。

2007/07/07
宇陀の墨坂 忍坂(押坂) 逢坂(大阪)穴虫は大和から見て
要所となる峠道であったらしい。
この要所にはそれぞれ神社が造られ都を守る結界となっている。
その他にも南側の伊勢本街道の関戸峠を過ぎた三茶屋に久須斯神社。
やはり南側となる県道37号線には談山神社。
三輪から西に向かう道には笠山荒神社などがある。
今回の三輪山参拝では東西南北の峠を回り神社参拝してきた。
この中で戦の場所ともなり崇神天皇時代に疫病の平癒祈願のために
大和への東の入り口にあたる墨坂の神に赤色の楯矛を祭り、
西の入り口にあたる大坂の神に墨色の楯矛を祭ったと云う伝承を持つ
墨坂と逢坂の神社であるがもともとの祭神については不明な点が多い。
でもどうもそのヒントが山口神社にありそうである。
この点を考察していきたいと思っている。


2007/04/20
水の一滴の「しずく」をあらわす漢字は雫零澪と書くが
雨の下に口を3個書いた文字である
も雫を表している。
この音読みは「レイ」でありこの口の下に巫を書くと霊の旧字体の
となる。
つまり
いう文字は神が人に懸かる前の神霊そのものを表している。
つまり天より降臨する雨垂れは神霊ということなのだ。

一滴の雫は小さいけれどそれは岩をも穿ち大河になり海となり生命を育む。
この天然自然の雫の変化に古代は神霊を感じたのであろう。
少彦名神のエレメントは雫であり水であるが、
高皇産霊の手の間から零れ落ちたのという伝承を持つがまさに雫ゆえである。
また粟の穂にはじかれる姿も雫が飛ばされる姿を連想させる。
さて少彦名神は酒の神とも岩の神とも言われているが
その元となった神功皇后摂政13年2月の歌謡について
政権を勝ち取った神功皇后は、
都の磐余に帰ってきた息子の誉田別皇子(ほんだわけのみこ=応神天皇)を迎えて
酒宴を張り,以下の歌を詠みます。

此の御酒(みき)は 吾が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ) 
常世に坐す いはたたす 少御神(すくなみかみ)の豊寿き(とよほき) 
寿き廻(もと)ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ 
あさず飲(ほ)せ ささ

ここで酒は「みき」とも「くし」とも読まれているが

少彦名神は久須斯の神とも久斯の神とも呼ばれている。
問題は少彦名神が久斯の神だから酒のことを「くし」と読んだのか
もともと酒を「くし」と読んでいたから少彦名神がくしの神となったのか?である。
また現在も酒を神に供えることをお神酒「みき」というが
斯は「き」と読むがこの「き」に「み」という美称を添えて「みき」となっている。
またくしふる峰とは古事記にいう天孫の迩迩芸命(ニニギノミコト)が降り立った所であるが
くしふるとは天孫が降りたという意味かもしれない。
だとすると「くし」とは天孫のこととなる。
くしの神はくすしの神とも言われ奈良の吉野には少彦名神を祭った久須斯神社がある。
くすしは薬師でもありここから薬師如来との繋がりが出てくる。
又 少彦名神を祭る神社には楠が御神木としてよく育っているがこれもクスの神ゆえかもしれない。

少彦名神と楠との関係については今後さらに調査していきたい。

の口三つについては、雨を溜める皿杯をあらわしていて雨乞いの儀礼を意味すると字統には書かれている。
しかしこの字と同義の零の「こぼれる」という意味と雫の「しずく」という意味から考察するに
筆者には天より落ちる雨垂れが見えてくる。
つまり中国的には雨垂れを無機物として扱っていて雨乞いという行為に霊を当てはめようとも
日本的神道ではその雨垂そのものに霊が宿ることを感じているということである。
この違いは見過ごされやすいが実は日本的神道の類のない大きな特徴といえる。



著作権について
2006/12/05

霊的感応があるものは神霊に尋ねて欲しい。
その故を。

芸術家でも作曲家でも著作家でも大家と呼ばれる者が
いかに極貧であったり名誉から遠かったかを。
天界からのインスピレーションが垂れる条件を満たす者が最近は減っている。
名誉や金を求めるものには決して天界の英知とインスピレーションはもたらせられない。
それらは産み出しても決して個人に帰属しないものである。
子供の魂を母が作り出したのではないことと同じである。
にもかかわらず最近は権利が取り沙汰される。
企業が集団で工夫して作り上げたものに利権が絡むのは問題ない。
それは映画やTV番組等である。
しかしながら神霊にインスピレーションを求め
そこから産み出したものはそもそもが公共の財産である。
これにより利益を得るときそこにカルマが生ずる。
作者亡き後まで利益を追求するときそのカルマが劫に変わる。
そういう意味で音楽業界は劫まみれといえよう。
行く末を占うとき哀れですらある。
音楽はもっと低コストでみんなが享楽を受けるべき世界である。
そのことをアーティストも肝に銘ずべきである。
老婆心ながら神霊界由来のインスピレーションを食い物にする人々を心配している。
企業は音楽で利益をあげたかったら映画作成のように企業的生産活動を行うべし。
でなければ神の鉄槌は必然である。


巡りめぐって高砂につながる少彦名神譚 未推敲メモ書き
2006/12/03
先月末に水戸に近い酒列磯前神社と大洗磯前神社に参拝してきました。
少彦名神と海を結びつける神社のひとつでしょう。

ところで筆者の実家は阿蘇神社のすぐ裏にあり阿蘇神社を産土神と崇敬してます。
この阿蘇神社の末社の健軍神社内の
摂社である天社神社で神霊感応があって、
之が切っ掛けで高橋の天社宮につながり
ここの祭神である道君首名公の調査より
味噌天神→熊本六殿宮の摂社少彦名神社→
→丹波の出雲大神宮の笑殿社(事代主神と少彦名命を祀っている)
→八坂神社の五摂社の天神社(少彦名神)という流れができました。

(ここで味噌天神の祭神は少彦名神と確信出来て
道君首名と少彦名神で検索しました結果が以下。)

小天天子宮を見つけ出し、由来に感動して全国の少彦名神社を回ることになりました。
そして京都五條天神の勧請元は宇陀の墨坂神社であることが分かり
この摂社の恵比須神社で少彦名神が祭祀されていることを知りました。
この墨坂の神が大阪では墨江となり住吉神社の隣の生根神社に祭祀されています。
御伽草紙の中では一寸法師は墨江の神よりの授かりものとなっていて
少彦名神が封印されても伝承としての手がかりが残りました。
また住吉神社は神功皇后由来の神社ですが
和歌山の加太淡島神社(少彦名神祭祀)も神功皇后由来の神社です。
この少彦名神と住吉-加太との繋がりから少彦名神がゑびす神とされました。
ここまで調査してきてこの流れが高砂であることに気づきました。
能「高砂」は世阿弥の名曲ですが以下のストーリーです。

阿蘇神社の神官友成が播州高砂の浦にやってくる。
ここで熊手を持った老翁と杉箒を持った老婆と会う。
この老夫婦は高砂の松と住吉の松の精であり
離れていても夫婦であり相生の松であると伝える。
神官もまた満潮に乗って舟を出し後を追う。
住吉に辿り着くと住吉大神の神霊が現れて舞う。


高砂やこの浦舟に帆をあげて。この浦舟に帆をあげて。
月もろともにいでしおの。浪の淡路の嶋かげや。
遠く鳴尾の沖すぎて、早や住の江につきにけり。早や住の江につきにけり。

われ見ても久しくなりぬ住吉の。岸の姫松いく世経ぬらん。
むつましと君は知らずや瑞がきの。久しき世々の神かぐら。
夜のつぐみの拍子を揃えて。すゞしめ給え。宮づこたち。

西の海。あおきがはらの波間より。

あらわれいでし。住の江の。春なれや。残の雪の浅香潟。
玉藻かるなる岸陰の。松根によって腰をすれば。千年の緑。手にみてり。
梅花を折って、首にさせば。二月の雪、ころもに落つ。


(有難の影向や。有難の影向や。
月すみよしの神あそびみかげを拝むあらたさよ。げにさまざまの舞びめの。
声もすむなり住の江の。松かげもうつるなる、青海波とはこれやらん。
神と君との道すぐに。都の春にゆくべくは。それぞ還城楽の舞。
さて萬才の。小忌ころも。指すかいなには。あくまを拂い。おさむる手には。壽福をいだき。
千秋楽は民を撫で。万歳楽には命を延ぶ。
相生の松風。さっさっの声ぞたのしむ 颯々の声ぞ樂しむ。 )

少彦名神を縁にして阿蘇から住吉に繋がった事を
良きかな 好きかなと言っているようです。

阿蘇の地と神功皇后には深い繋がりがあるはずです。
この謎については今から調査していきたいと思います。



少彦名神の神格についての考察
2006/11/15
全国の少彦名神の伝承について調べてきましたが
この少彦名神についてまだ記載していない部分がこの神の神格です。
天津神なのか國津神なのか?
なぜ秦氏や八坂連や佐々木氏が祭祀するのか?
五條天神の前身である宇陀での祭祀はどこでされていたのか?
淡島とのつながりは何なのか?
この疑問に対する答えを理解していくためには
神霊の神格 エレメントについての認識が不可欠のように思えます。
一二三四をひふみよと呼び火風水地と当てはめてこれを四大エレメントとすると
少彦名神は水に当たると筆者は確信しています。
記紀を読む限りにおいては酒の神 岩の神という神格が読み取れますが
全国の神社を巡り自分なりにも考察していった結果
もっと大いなる神であると強く感じています。

そして少彦名神は薬師如来との接点や
ゑびす神との接点を持つと一般では言われていますが
それだけでなく弥勒菩薩とも接点があると思っています。

これらのことについてこのホームページで
今後公開していきたいと思っています。


藤原不比等と宮子姫
2006/10/17
藤原不比等が最初に天皇家と外戚を結ぶのは
不比等と賀茂朝臣比売の間の娘の宮子が
文武天皇の夫人となったのが最初であるが
やはり宮子は藤原不比等の養女となって
文武天皇に差し出されたのだということをふと実感した。
文武天皇と宮子の間に出来た子供が首皇子(後の聖武天皇)であるが
宮子は首皇子を産むと気がふれたということで幽閉されてしまい
聖武天皇が母である宮子と会うのは36年後である。
従って聖武天皇には藤原の血は流れていない。
だとすると藤原氏に操られた傀儡天皇では無かったかもしれない。

ところで筆者は蘇我氏が外戚となっていく方法と
藤原氏の方法に共通点を感じている。
蘇我稲目の娘の小姉君(おあねぎみ)は欽明天皇の夫人となるが
やはり小姉君は養女と考えたほうが自然である。
欽明天皇は国を治めるために司祭としての巫女を求め
それを実現するためにまず蘇我稲目の養女となしてから夫人としたのであろうし
文武天皇の場合は美女の誉れ高い宮子を娶るのに体裁をつけるために
藤原氏の養女にしてから送り出したのであろう。
それが切っ掛けであとは芋蔓方式で蘇我氏も藤原氏も血縁を結んでいっている。

宮子伝説
http://www.aikis.or.jp/~okada/si/menu_si.html


玉名市の田崎天子宮(田原坂そば)に参拝してきました
2006/10/15

偶然 玉名から田原坂に向かう道の途中にある天子宮を妻が見つけて
報告受けましたので今日そこへ参拝してきました。
この天子宮は小天の天子宮と同じく少彦名神を祭祀していたものと思われますが、
現在は祭祀は粟嶋さまとなっていました。
熊本市横手の下馬神社を通った時に少彦名神の感応があったので
車から降りて参拝したら粟嶋さまとなっていたことが以前ありました。
今回少彦名神が粟嶋さまとして祭祀されるようになった神社を見つけたことにより
熊本市で粟嶋さまといわれる祭神は少彦名神の可能性が高いといっていいようです。
まあ淡嶋であれば淡路島からの名で
粟嶋であれば少彦名神が乗った船の粟茎または弾かれた粟茎から
呼ばれた名前が由来と考えていいでしょう。

ただ宇土に有名な粟嶋神社がありますが
ここは最初から粟島様として夢枕に立ったとう伝承が元なので
あえて祭神を決めつけないでおきたいと思います。


道君首名公と菅原道真公
2006/08/17
祭神及び神名乗っ取り研究会でも
言及しましたが少彦名神祭祀の天神社を菅原道真公が乗っ取っていると
いうことに関しては道真公亡き後のことであり
責任が道真公にあるわけではありません。
時の勢力が勝手に恐れ勝手に祭っただけです。
しかし神霊背景があったのは間違いないようで
無念の氣というものも感じています。
私自身は道君首名公を調査してきたのですが
空海だけでなく菅原道真の大宰府左遷後の生活において
道君首名公の精神に菅原道真公が感応したような背景を感じます。
718 養老2年 4/11  56歳で正五位下の道君首名は没していますが
903 延喜03年 2/25  59歳で道真も大宰府にて没しています。
菅原道真が200年前の道君首名公を認識していたかというと
菅公がたどった歴史を読み解くと
道氏については当然認識が深かったように思えます。
まず菅公は882年に加賀国に到着した渤海国の大使を応接するために
翌年883 元慶07年 加賀権守という役職についています。
加賀といえば道氏の本拠地であり道君首名公が生きた白鳳時代に
加賀平野のほぼ中央、手取川扇状地に造営された道氏一族が建てたと言われ今に伝わる
「末松廃寺跡」は金堂や七重の塔をもつかなり大きな寺院であったとされています。
法隆寺五重塔よりも大きな塔の礎石など見る限り当時の隆盛が窺い知れます。
この道氏の希望の星が道君首名公であり
その道氏の繁栄の背景は天智天皇の側室の越道君娘の子供である施基皇子から
繋がる白壁王が49代天皇(漢風諡号は光仁天皇)になったことであろうかと思います。
残念ながら道君首名公は筑後・肥後国司から京に戻されることなく九州の地で
没することになるのですが、このことを菅公はわが境遇になぞらえた事でしょう。
菅公は886年 仁和02年に讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任しているのですが
讃岐国といえば空海の故郷でありこの地の満濃池については
「熊本霊ラインと弘法大師 空海」で考察したとおりです。
道君首名公はこの道氏の故郷の加賀よりかなたの九州の地で
国司としての役割を果たし民のために心から尽くしています。
その精神性は菅公を刺激したのではないでしょうか?
1300年後の現代にまで道君首名公の偉業は伝わっているのですから
菅公の時代にはまだ民の記憶に深く残っていたことでしょう。
首名の漢詩が懐風藻に残っています。
正五位下筑後肥後守道公首名  一首  年五十六
つまり道君首名公が亡くなられた年の歌となっています。
実際は4月11日に亡くなっていますので前の年の秋に作られたものでしょう。

    
五言 秋宴 一首

望苑商気艶 鳳池秋水清 晩燕吟風還 新雁払露驚

昔聞濠梁論 今弁遊魚情 芳筵此僚友 追節結雅声

秋の日の気配が濃くなったある日に友人たちと湖畔に遊ぶという歌ですが、
荘子と恵子との「魚の心情が分かるか」という論議のことを
さりげなくこの地に骨を埋める自分になぞらえ
道君首名公の奥底に潜む心情を隠しながらちらりと晒しての歌と思うと 
無念の念かあるいは諦念なのか、その心情を思い
菅公はこの歌に涙したのではないでしょうか。
ああ悲しいかな講談社学術文庫に翻訳を出した江口 孝夫は
この道君首名公の歌を「荘子」の第十七篇「秋水」を安易に引用した歌と考を述べるが
魚の気持ちが分からない恵子と同じく江口 孝夫は道君首名公の詩を理解出来ないでいる。


20060902 記
奈良の大安寺に関してであるが
701 大宝1 6/01 正七位下の下道君首名に僧尼令を大安寺で説明させる〔続日本紀〕とある。
この大安寺は日本書紀では大官大寺 続日本紀では大安寺と呼ばれている。
奈良四大寺のひとつである。
律令制定の中で僧尼道士を規制する法の説明を道君首名公はこの大安寺で行っている。
道氏自身が末松に大規模な私寺を持つ豪族であることが関与していたのであろうか?
さてこの大安寺について梅原猛の「隠された十字架」によると
895年(寛平七年)に菅原道真が「大安寺縁起」を編纂しているらしい。
空海に虚空蔵求聞持法を授けたのは大安寺の勤操もしくは戒明といわれている。
(空海の入定は835年(承和2年)3月21日 62歳となっている。)
道君首名と菅原道真 空海にはやはり深いつながりを感じる。




京都 八坂神社の秘密について
2006/08/05
まず コピー文書
 羅列
京都東山の祇園社(八坂神社)は、南都の僧円如が貞観十八年(876)六月十四日に、
京都八坂に在った役神社の側に藤原基経の助力を得て、
薬師・千手観音などの像を祀った堂宇を建立したのに始まります。
やがてこの堂宇は祇園寺(観慶寺・感神院とも)と呼ばれました
(『祇園社社家条々記録』「太政官府 山城国の解」)
その後,延長四年(926)には,修行僧が祇園天神堂において供養しています(『日本紀略』)。

祇園御霊会は八坂神社所蔵の『山城国愛宕郡八坂郷祇園社本縁雑録』に拠りますと、
貞観十一年(869)疫病が流行した際、八坂において疫神の祭がなされたのが最初とのこと。

林屋辰三郎によると
「八坂には高句麗からの渡来人が定住し八坂連が祀る天神社があった。
そしてここでは其処に祀られている漢神に対して豊穣や祈雨のために
殺牛祭神がなされていました。
やがてこの神は雷神の結び付けられ,怨霊を鎮める天神と崇められた。
そして,その祭が牛の頭を切り神に供えることから
祭神そのものを牛頭天王と呼ぶようになり,
怨霊の祟りによる疫病を鎮める牛頭天王が成立した。」との考察


考察:20060802
ここに出てくる「役神社」とは今の八坂神社の正面に鎮座する「疫神社」のことと思われます。

八坂連が祀る「天神社」というのが「役神社」のことであり
役といえば普通は役行者を思い出すのですが
この役はたぶん薬なのでしょう。
役神社=薬神社=少彦名神を祭祀する神社で
もともとは「薬天神社」と呼ばれていたのだと思います。
八坂神社の摂社の天神社の祭神が少彦名神なのはその名残りなのでしょう。
そして少彦名神の神格から
南都の僧円如が貞観十八年(876)六月十四日に
「薬天神社」のそばに薬師観音を祀ったのでしょう。
876年といえばまさに少彦名神大国主命が道君首名公の
偉業により疫病退散の大神として京でもてはやされた時代です。

まだ天神が菅原公に乗っ取られる前のことです。
この時代少彦名神は神農とも同一視されていたと思います。
神農=農業の神 医薬の神です。

全国の少彦名神を祭祀する天神社は
菅原道真の御霊信仰により乗っ取られて行くのですが
八坂神社だけは特殊な配慮により
素戔嗚尊が祭られるようになったのでしょう。
このことは天界の機密なのかもしれません。

友人による指摘による再考察 20060825
八坂氏の祖は斎明天皇二年(656)八月に来朝した高麗の調進副使 
伊利之使主(いりしおみ)だそうです。
『新撰姓氏録』で八坂造の祖に意利佐の名があるとのこと。
ところで元慶元年(877)都下に疫病が流行した際に摂政右大臣藤原基経が
この八坂の「天神社」に疫病平癒祈願して霊験があったそうです。
この時までは「天神社」 あるいは「薬神社」には少彦名神が祭祀されていたものと思います。
もともと藤原氏は奈良では春日大社 漢国神社 そして氏寺の興福寺と
祭祀の基盤があったのですが京都にはなかったのでここに居宅を寄進して
観慶寺(かんぎょうじ)を建てています。
また藤原基経に神の感応があったので感神院とも呼ばれました。
この行為を須達長者が釈迦のために造った祇園精舎に因んで祇園寺とよび、
天神堂は祇園社と呼ばれるようになったとのことです。
そしてこの観慶寺は藤原氏だけあって興福寺の管轄となります。
ここに祇園社と呼ばれるようになって牛頭天王が祭祀されるようになったのでしょう。

ところでこの後天延2年(974)には観慶寺感神院は
天台の別院として延暦寺管轄となっています。
この藤原基経は菅原道真と同時代の人で菅公と敵対したまさにその人物です。
菅公に恨みを抱き、大宰府左遷という形で直接的に危害を加えたのは、
その息子の藤原時平であり、彼は菅公の祟りにより
菅公憤死後に喀血して死んだといわれています。
また藤原基経は西宮記によると北野の地の「火雷天神」を信仰していたらしく、
毎年北野の雷公に年穀(ねんこく)豊穣を祈っています。

つまり菅原道真公が天神として祭られるようになったのには
藤原基経が崇敬していた天神が菅公の祟りを恐れるが故に
すり替わってしまったということが背景にあります。


ダ・ビンチ・コードを観てきました。
2006/06/12
なんか世間では評価が2分されていますが、
かなり面白かったですよ。
良く出来た映画だと思います。
まあアクションものでも推理ものでもないので
理解できないという人が多いのも分からなくはありませんが。

感想は多義にわたりますが
その1個目を今回は添付しておきます。

「厳密に言うとトムハンクスのラングルドン教授役は
役が合っていないように思えたけど彼トムハンクスは
神霊的にそういう役目を受けて今世に生まれてきたのだろうと感じました。
そういう俳優の精神性の裏まで感じることが出来ました。
ところでキリスト教は契約を基本としていると聞いているけど
これは教会の権力を維持するために作り出された話なのかもしれない。
ユダヤ教も含むけど契約という観念はおおよそ人間的すぎるように思えます。
神は契約を必要としないが教会と人との間には必要なのでしょう。
この契約という観念が人間の自由を奪っています。
例えば悪魔との契約より死後魂を売るなどというばかげた発想は
妄想であり害毒です。
本来人間の魂は契約に律則されず常にフリーであるべきです。
古来日本では契約ではなく発願という形を取ってきています。
似てはいますが違いは魂の尊厳をどう受取っているかにあるのです。
魂は神の分魂であり分け与えられたものであるから
もとより借り物でありそれゆえに契約という言葉は似つかわしくないです。

自分の魂を自分のものとあつかましくも思い
自分の思想と行動を担保に神と契約するというキリスト教的思想は
愛と犠牲というキリスト教のもうひとつの理念を踏みにじっています。
これゆえにかたや愛を謳いながら
かたや残忍なことも平気で行うことをすることに疑問さえ持たない
いびつな精神構造を形作っているといえるのではないでしょうか。」

日本人で自分が育てる子供と契約する親がどこにいるでしょうか?
子供に対する無償の愛と責任と子供の人権に対する責任を負いこそすれ
子供が親に対する忠誠を契約するなどということは道義に反します。
これは儒教的観念からいっても忠孝は契約にあらずです。

※ 日本人で神仏道を志すなら必ず発願は必要かと思います。
今、魂の自由度を確保せよといいながらこういうのは
逆説的に聞こえるかもしれませんが
自分の神の分け御霊をいかに輝かせるかは発願の大きさによるでしょう。

さて同様にキリスト教で説く原罪意識もまた教会の権力を維持するために
誇張されすぎているような気がします。
免罪符と日本の神社のお守りと共に収益には違いありませんが
差別と驕りと見下しの論理が免罪符には見え隠れします。




感想の2個目です。(メールではなく日記より抜粋。)
この映画観て信仰心と宗教心との違いを大きく感じ始めている。
宗教的対立の残虐さと戦いの悲劇は人類史上で一位を占めているのではなかろうか?

西洋においては魔女裁判 十字軍 Dコードで知った13日金曜日のテンプル教団弾圧 etc
日本においては一向宗 浄土真宗弾圧 キリシタン弾圧 etc

宗教がなぜこうも血塗られた歴史を刻むのか?
それは宗教というものが、宗教団体という人間の欲望を満たす形態を
強力に形成していくからである。
あるいは人間の恐怖心を煽る形態までも形成していく。
俗に言えば団体というものそのものが利権ということになる。
聖書も教会というシステムの中では利権の道具と化する。
人とは権力と賞賛を欲する動物である。

おおよそ 神との対峙は一対一が基本であり
団体となったときにそこにもはや真理は存在しない。
真理とは自己の中に神性を見出すことにある。
あるいは生み出す母性の中に真理を見出すことにある。

神に対する信仰には実は人間による教えや指導は不要である。
この真理に気づくために団体が存在するという逆説的捉え方はあるが。

誰か人に指導されて信仰心を持ったとしたら
まずそれは本物なのかと疑って掛かったほうがいい。
また感じる背後霊や守護霊に指導されていると感じている場合も
疑ったほうがいい。
神に対する信仰心という土台が自分の中で確信的であり
揺らがないものであるべきで
不動の心ものが最初にないと話にならない。
動物が教わらなくても営むように
人間に本来備わる本能としての信仰心というものが存在している。
教えられて神という架空のものを自分の中に作り出していくわけでは断じてない。

従って教団を教えられることにより信仰して
それにより神を感じるという本末転倒なことは
起こってはならないはずである。
今神などを信じていなくて幸せなら結構なことである。

もし信仰心を失っているものに神霊が指導する方法は
人知を超えた困難に幾度も遭遇させ艱難辛苦を経験させ
生老病死に直面しそして山や海で自然の驚異と自然の偉大さを
経験させ大地自然に生命の神秘を垣間見ればそこにひとりでに
信仰心という泉が自噴するものである。
決してそれは教義や理論でも無く団体でもない。
信仰心の基本は生きるということへの感謝である。
行きとし生きるものへの感嘆である。
それは教え諭されるものでもなく奇跡による信心でも無い。
この土台無くして神を信じているというものは
実は神ではなく教団や利権や御利益を信仰しているのである。
これは似非信仰でありこれゆえに宗教というものがはびこることになる。

また信仰心を当たり前のように持つ人は少数派であるという現実がある。
まだ人類は幼く不動の信仰心を類魂として獲得していない。

しかしながら信仰心が完全に個人のものとして
他人に対して説明不要なものとして独立しているというかというと
そうでないところに問題の根がある。
人は価値観を共有しないと生きていけない存在でもあるからだ。

Dコードではオプス・デイは神そのものより宗教心を重んじる団体として
存在していた。
神そのものより教団や教祖を信仰しているのだ。
恐ろしい話ではあるが
それでも人は価値観を共有するという幸せにみたされるのだ。


※ 本能としてもつ神そのものに対する信仰を信仰心
教団や教義に対する信仰を宗教心と定義している。

揺ぎ無い信仰心を取得するために人は
神を徹底して試さないといけない。
神を試すことにより信仰心は養われていく。
キリスト教で神を試すこと無かれというのは
教会の詭弁であることを認識すべきである。
そりゃあ 神を試すというのは自分の内面の話だけど
教会が試されたら奇跡が常に起こらなければ教会は困るでしょう!!!

そういえば空海も神を試して我拝師山の崖から飛び降りている。
道君首名公も火中に飛び込んでいるし
この命がけの問答の中で信仰心は強まっていくのです。






熊野の音無天神
2006/01/16
少彦名神を調べていて熊野の音無天神というのが検索で出てきました。
ここは元は少彦名神祭祀だったのです。
能の「巻絹」というのは舞台が熊野でして
ここ音無の神霊が降りた幻想的な巫女の舞が
クライマックスなのですが
「音無にかつ咲きそむる梅の花匂はざりせば誰か知るべき」
という和歌が出てきて梅が出てくるあたりから察して
ここの能に出てくる神霊はどうも菅公なのです。

能では、「なうなうその下人をば何とて縛め給ふぞ。
その者ハ昨日音無の天神にて。
一首の歌を詠み我に手向けし者なれば。
納受あれば神慮。
少し涼しき三熱の。
苦しみを免るそれのみか。
人倫心なし。
その縄解けとこそ。
解けや手櫛の。
乱れ髪 」と謡われます。

この時すごく霊気を感じたのですが、
その日ある雑誌開いたら能のことが出ていて
その最初がこの「巻絹」で
ただならないものを感じてしまいました。

とりあえず祭神神霊乗っ取りの一例として記録しておきたい。


沙沙貴神社について 考察01
2006/01/09
沙沙貴神社について調べてみているのですが
ご存知のように主祭神は少彦名神になっています。
神話の時代に少彦名神が
ササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から
「ササキ神社」が始まったといういわれがあるそうです。

副祭神として
古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の
祖神「大毘古神」(おおひこ)大彦命と
仁徳天皇 「大鷦鷯尊」(おおささきのすめらみこと)
が祭祀されているようです。

※ 孝元天皇の皇子で四道将軍である大彦命は、
阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造(道氏)・伊賀臣の祖。

従ってこの沙沙貴神社創建の沙沙貴山君は道君首名公と大彦命を通して
同じ祖ということになります。
この神社に少彦名神が祭祀されているということは
大彦命と少彦名神に関連があることを示すかもしれないと思っているのですが、
もしそうなら道君首名公が少彦名神を祭祀した説明もより明確化出来ます。

さてこれとは別に以前より聖徳太子がらみで
「先代旧事本紀」及び
「先代舊事紀大成経」を調べているのですが
びっくりしたことが分かりました。

大成経の伝本は3部あるといわれています。
そのうちのひとつが鷦鷯本です。
これは「ささき本」とよぶそうです。
漢字で「鷦鷯」はミソサザイと呼んで鳥名なんですが
http://www.tokaido.co.jp/lab/makino/43misosazai01.htm
仁徳天皇は「大鷦鷯尊」(おおささきのすめらみこと)と呼ばれていて
この大成経の伝本の鷦鷯本というのは
沙沙貴神社に秘蔵されていたことより
鷦鷯本と呼ばれるようになったそうです。

さてこの大成経というものは偽書説が強いのですが
とりあえずそうでないと仮定してください。

鷦鷯本はもともと菅原道真が所有していたもので
それが妻女に伝授され、
その後 源成頼の手に渡り源成頼が江州を領したために
源成頼が佐々木神社に奉納したといわれています。
この源成頼はその後佐々木成頼となったようです。

自分が調べていた別々の事象が交差したことに驚きました。
今年のうちに沙沙貴神社を一度参拝してこようと思っています。
呼ばれている気がします。
ところでゐ師がよく知っている府中大国魂神社の資料には
この鷦鷯本は菅原道真より出たものではなく
忌部家より出たとの異説が記されているそうです。



道君首名公と白山信仰
2005/12/25
流れのおさらいです。
道君首名公の出自である道氏は
古墳時代後期にはすでに北加賀地方(石川県)を支配する豪族であり
白山比咩神社(石川県石川郡鶴来町三宮町ニ105-1)を祭っていると考えられます。
また道氏は前回いっしょに参拝した敢國神社の祭神でもある大彦命の後胤でもあります。
ただいまでこそ情報が発達し道氏と白山信仰が結びつきますが
昔にこのことを理解していた人物がどれほどいたかは疑問があります。

さて道君首名公が祭祀した神のうち二神は大國主命 少彦名神ということは
明確にできましたやはり三神を祭祀したはずという思いがあります。

あと一神はどの柱かと言うことですが白山比咩であるとあたりをつけて
今まで調べてきましたがなかなか繋がらないところに非力さを感じています。

小天の天子宮では三神として大國主命 少彦名神 御年神を祭祀していますが
道君首名公がこのときに三柱として穀物神の御年神を祭祀したとは考えにくく
道君首名公が農業のパイオニアとして活躍したことにより後日祭祀された
と考えた方がピンとくるものがあります。

味噌天神の白山通りもいつから白山と呼ばれるようになったのかは
いまだに分からずじまいのままです。
また味噌天神より南1kmのところに白山神社がありますが
この白山神社は祭神が白山比咩とは書かれていなくて。
由来由緒不明となっているようです。

ここ1年この件に関しては進展がありませんでしたが
熊本の昔話を調査していて偶然ヒントが出てきました。

味生の池(あじうのいけ)の大蛇(熊本市) 平成13年1月20日付
http://www2.ocn.ne.jp/~i-talk/minwa2.htm
今からおよそ千二百年ほど前、
熊本市池上(くまもとしいけのうえ)は
広い広い池だったそうな。
そのうえこの池には、一匹の恐ろしい大蛇(だいじゃ)が住んでおってな。
ときどき里へ姿をあらわしては、田畑を荒したり家畜をさらったりするもんで、
村の者はみんな、びくびくしながら暮らしておったんだと。
そんなある日、とうとうたまりかねた村人たちは、
肥後(ひご)の国司(こくし)、
道君首名(みちのきみのおびとな)に助けをもとめた。
首名(おびとな)は村人たちの困りようをよく知っておったでな、
さっそく妙観山(みょうけんざん)の観音堂にこもって、
毎日毎日そりゃあ熱心に祈りつずけたそうな。
したらある夜のことじゃ。
一人の老人が夢枕に立っていうた。
「味生(あじう)の池のほとりでお経をよむのじゃ。そして寺を建てるがよい」
首名はさっそく京へ上ると、天子(てんし)にこのことを告げた。
天子はすぐさま僧真澄(しんちょう)をつかわしなさってな、
大蛇を退治させることにしたんだと。
さて京を旅立ち、何日もかかって肥後の国に入った真澄は、
やっとのことで妙観山にたどりついた。
するとそのときじゃ、夢の中のあの老人があらわれたではないか、
そして、「われは白山権現(はくさんごんげん)じゃ、
早く寺を建て大蛇を退治するがよい、われは守り神として
このあたり一帯を守ってやろう」と静かにこう言うと、
すうっと消えてしもうたんじゃと。
こうして権現に力ずけられた真澄は、池のまわりに千人の僧を集め、
百日間のお祈りを始めた。
すると百日目の昼過ぎのこと。
急に空が暗くなったかと思うと、激しい雨とともに竜巻が起こった。
池は狂ったように大きく波うってな、とその時じゃ、
突然池の中から、目をらんらんと輝かせた大蛇があらわれた。
僧たちの読経(どきょう)の声は、ひときわ高く鳴りひびく。
その中を、大蛇は真赤な火をふきながら、尾をふり乱して、
竜巻と共にに天へと昇って行くのじゃった。
それ以来、村には平和な日々が戻ったそうな。
そして和銅(わどう)三年、真澄は近くの山一帯に百二十の寺を建て、
妙観山功徳地辺寺(みょうけんざんくどくちへんじ)を開いたと云われておる。

以上

ちなみに妙観山は独鈷山のことと思います。
独鈷山に実は白山比咩が祭祀されているとすると
自分なりには非常に(神霊的に)合点がいきます。

根拠はありませんがなんとなく三柱の神が
白山比咩
大國主命
少彦名神
ということに少しずつ確信が持ててきました。




天社宮 (高橋東神社) への想い
2005/09/16
最近は天社宮に参拝するのが日課となりました。
となりにアパートが建ち御神木の木の一部が切られたのに
ショックを受けたのが発端です。
この神域を神霊の降臨する神聖な地として後代に残し
1300年の歴史を持つ神木を守っていきたいという願いの一途故です。
この楠の神木はひもろぎとしての歴史は
日本一古いのじゃないかとさえ思います。
前回ゐ師と行った奈良の奈良豆比古神社の楠よりも古いのは明白ですし
大阪の少彦名神彦祭祀の天神社の楠よりも400年は古いです。
山の中ならともかく里で1000年以上の歴史がある木とは、
ほぼ間違いなく御神木で
その地の霊氣と住民の崇敬に守られてきたということは間違いありません。
これを今の住民の都合で伐採するとはもってのほかと思います。

もともと天社宮は天下国家の安寧を祈りこむ神社であって
個人の祈願を願う低次な神社ではないという気がします。
しかしそれ故に崇敬する氏子に恵まれていません。
聖域にも住宅がどんどん建ち、かつての広大な神域が穢されています。
ここは二つの川が合流する三角地で京都の下鴨神社と同じ構造です。
京都よりも古いので元糺とはまさにここのことで
元糺の池といえば本来池上の味生池のことでしょう。(お国自慢ですが)
道君首名公の天才ぶりが如何なく発揮されています。
この天社宮は洪水を守る要でこのあたりは被害が大きいので
大きな神域として残されていたものと思われます。


天社宮の三柱の神は
少彦名神
大國主命
道君首名公

ということになりますが
背後に白山の大神霊を感じます。



聖徳太子への想い
2005/09/15
未だに聖徳太子論争の本は結構売れています。
中身は聖徳太子は実在の人物なのか
空想上の人物なのかということです。

僕は聖徳太子は宗教上の聖人で
日本人が作り上げた歴史文化だと思っています。

細かく見ていくと見えなくなって
遠くからみると大きい存在となると感じているのですが
これは神霊と同じですね。
細かくみるとは、仏教擁護者としての聖徳太子が
創られたものであるのは間違いないし
聖徳太子由来というものに確固たる物は無いという
まことに不可思議な状況に至ります。
『三経義疏』なども聖徳太子由来じゃなさそうですね。
尾ひれはりっぱなのに実体は存在しないのです。
これは卑弥呼も同じかもしれません。

中国の歴史書に両方とも不正確な表現で記載されていることが
論争の種です。

聖徳太子は『隋書』東夷伝倭国条に、
「開皇二十年、倭王あり、姓を 阿毎[あめ] 、
字を 多理思比孤 [ たりしひこ ] 、
阿輩鷄彌 [ あはきみ ] と号す。使を遣はして闕に詣る。」
『日出處天子致書日没處天子無恙云々』
となんとも奇怪な文章が残り
一方卑弥呼も
中国の史書「魏志」倭人伝に載っている国の位置が
不確かなことから九州説 から箸墓説まで
無数の説があって笑えます。

僕は宗教家ですから中国の歴史書に頼ることが
馬鹿らしく思えます。
だいたいそれが正しいという保証も無いわけですから。
ジパングが黄金の国と記載されているから
実は日本のどこかに黄金で出来ている国があったはずと
探すのと変らないのじゃないかな。

ただ聖人としての聖徳太子の精神性は高く評価しています。
そして聖徳太子編纂の旧事記 (先代旧事本紀)は重要な文献であると認識しています。
これが四天王寺に今もなお保管されているといわれていますが
真相はまだ公表されません。実に残念です。
最近は聖徳太子不在説のほうが力を持ってきましたので
名誉回復のために公表されるのではないかと密かに期待しています。



お互いの貴重な体験談披露会
2005/09/05
貴重な体験談?のメールををありがとうございます。
ところで私にもその手の思い出は数々ありまして
そのうち一番古い思い出を披露させていただきとうございます。

わたくしは小学校1年生の時に半年ほど「書き方教室」に
書道をしている姉に連れられて通ったことがあるのでございます。
そこは大きなお屋敷でいくつも部屋があるようでした。
そこにひとつの便所がありまして
当時はまだ電灯といいましても
松下のソケットに20Wの裸電球というものが普通であり
昼なお暗く、かならずや、糞ハエと申す
細長く大型のハエの羽音が耳元で
ブーンと聞こえたものでした。
古く黒光りする板張りの下は
今の家庭では影も無いぽっとん便所でありまして
便器というものは木製の枠だけという
金隠しもない粗末なものでした。
底のほうには白く脂ぎった蛆どもが無数に蠢いているのが見え
匂いの強さやアンモニアの目の沁み具合により
汲み取りをいつしたのか
年寄りが多いのか若いものが多いのか等の
家族構成まで分かったものでした。
ある時我慢の限界を超えて
この便所で下痢気味の用をたしたときのことでございます。
下痢気味の脱糞の場合B29の爆撃のようなものでして
大型爆弾を落としたときのように返しを恐れる必要なく
それはもう気楽で極楽のようなものでございます。
あの用後の後味すっきり感に胸を打ち震わせて
歓喜の「はあ」とか「ふー」とかの息吹を済ませて
あたりを見回すとあれが無いのでございます。
当時といえば20cm角の「文化ちりし」というものを2枚つまんで
尻に当てるのが慣わしとばかり思っていました。
ところがそこにあるのは猫の便所を思わせるガンガン(ブリキ)の菓子箱に
砂が敷き占めてある所謂 猫の砂箱様なものに
20cm程度の竹に手ぬぐいが巻きつけてある
がまの穂状といいますかたんぽといいますか、
とにかく左様なものが置かれているのでございます。
その手ぬぐい部分は茶色く怪しい光を放ち
そこに砂がまぶされたようになっておりまして
それはもう異質な貫禄を漂わせていました。
私はまだ幼さゆえに知恵無くおもわず「おおおお」と
声にならない声で姉を呼んだのでした。
その後の記憶はぷっつりと消えてしまっているのですが
なんでも先生よりきついお咎めがあったとのことです。
今で謂うマナーといいますか教養といいますか、
まるで箸を使うかのごとく自然に棒を使うのが
そこの家でのしきたりなのでした。
今でこそ「割り箸」を使わないなどという
エコロジーが一般に広まり始めていますが
高貴な家庭ではこのように35年も昔より
エコロジーとリサイクルを公然と自然に
当たり前のように行っていたのでございました。

私のように下賎な生まれのものには
夢ほどにも理解できない営みなのでございました。








         御質問 御鞭撻はメールでお願いします






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