祭神及び神名乗っ取り研究会







過去から近代に至るまで祭神及び神名乗っ取りはかなり行われていると思われる。
例えば須佐之男命や大國主命の伝説はそれぞれ一人の人ではなく
複数人の話が一人にまとめ上げられているようである。
詳細は今から検討していくが、故意に隠された歴史がそこに存在する。




特にこの場でのテーマは物部を中心に追ってみたい。



聖徳太子時代の7世紀に蘇我馬子に滅ぼされた物部一族であるが
公の正史によると用明天皇が崩御すると、
物部守屋は再び穴穂部皇子を立てようとしたが
蘇我はそれに対抗し戦争となる。
結局は蘇我軍側の迹見赤檮(とみのいちい)が
鏑矢(かぶらや)をもって射倒し、蘇我軍が勝利した。
その後は泊瀬部皇子が崇峻天皇となり
崇峻天皇は殺害され完全な蘇我の天下が訪れる。

物部といえば大物主神=三輪の天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊を祖に持つ。
豪族としては物部尾輿-物部守屋
大直禰子=大田田根子(おおたたねこ)→三輪君族

守屋以降の物部氏関係としては

物部雄君 もののべのおきみ (?〜676)
天武朝の大海人皇子の舎人

藤原不比等時代では
石上麻呂 いそのかみのまろ (640〜717)
父は物部宇麻乃。
物部連から石上朝臣へと変わる。
『壬申の乱』では大友皇子軍に属しながらも、
天武朝に取り立てられ活躍する。
天武天皇崩後も、重要な役職を歴任し信を置かれていることが見てとれる。
麻呂の死に当たっては、元明天皇がその死を惜しんだという。

物部系の神霊としては
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
大物主神
布都御魂大神 (建甕雷神の帯びていた霊剣の平国之剣)
石上神宮(いそのかみじんぐう)は物部氏の総氏神と言われている。

さて物部の何が消え去ったのかということだが
正史に残される物部の歴史は改竄されているのは間違いない。
藤原不比等らの官吏が律令を制定し
中央集権として国家をまとめるにあたり
天皇に強大な権力と歴史背景を持たせる必要があったということ。
そのために古事記 日本書紀を編纂して
歴史を歪曲して神々まで編纂して「万世一系の天皇の系図」を作成したが
これゆえに物部の歴史が改竄されてしまう結果となってしまった。

そこには万世一系の天皇家の出自に関わる重要な秘密が隠されている。

そして現在そのヒントは三輪山に残っている。

大物主神は「大いなる物部のあるじ」と言う意味であると筆者は受け取っている。




<稲目と尾輿>

(1)蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した。
(2)昔から神祇崇拝を重んじてきた物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏像を難波の堀江に流した。

<馬子と守屋>

(1)敏達天皇の時代に馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝した。
  馬子は、司馬達等の娘等三人を尼とする。
(2)物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海と共に仏教崇拝に反対する。
(3)敏達天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を奉ろうとしたが、馬子はこれに反対し、用明天皇を立てた。
  (これに先立ち、中臣勝海は、馬子から依頼を受けた刺客によって殺害されている)
(4)用明天皇は三宝に帰依する意志を示したため、群臣は二派に分かれることとなる。


<物部氏の滅亡>

(1)用明天皇が崩御すると、物部守屋は再び穴穂部皇子を立てようとした。
(2)馬子は炊屋姫(後の推古天皇)からの断罪を理由に穴穂部皇子を殺害。
(3)穴穂部皇子を応援していた守屋は、馬子や仏法の加護を受けた厩戸皇子の活躍で蘇我軍に殺される。
(4)蘇我馬子は崇峻天皇を立て、倉梯に宮を造る。

ここに物部氏が滅び、蘇我氏専横の時代を迎える。

乗っ取りの例


例えば例の木嶋坐天照御魂神社
これは物部の天照国照彦火明櫛玉饒速日命を
祭神としていたのに秦氏に完全に乗っ取られて
蚕の社 元糺社となってしまっている。
ここは秦氏系であって物部の気配は完全に消し去られている。




不比等が蘇我を歴史から消したとするなら
秦氏は物部を歴史から消しているのかもしれない。





少彦名命についての考察 

熊本の味噌天神に祀られる神が少彦名命と道君首名メモに記載したが
少彦名神については醫祖天神という神名以外にも
小天少彦名神とか手間天神と呼ばれている。
少彦名神は神皇産霊尊(高皇産霊)の御子であるが
神皇産霊尊(高皇産霊)の手の間から零れ落ちたので
手間天神と呼ばれるようになったという話である。
この手間天神から天満天神とも呼ばれるようになったと考えられる。
この天満天神は日本建国の神というだけでなく
疫病除けの神や医薬の神としても信仰されている。

天平7〜9年(735〜737)頃に大宰府の管内から始まった天然痘の流行より
この大宰府に天満天神を祭祀したと想像する。
これは筑紫国司の道君首名公が和銅六年に少彦名神を祭祀することにより
疫病を平癒させた経緯によるものである。  
この詳細はここに記載
その後この地に菅原道真が配流されてきてこの地で延喜3(903)年に没する。
この頃の御霊信仰により道真公の霊を鎮めて疫病などもたらす祟りを免れようと
道真公の御陵に、もともとこの地に祭られていた天満天神を祭祀したと思われる。
ところが987年に一条天皇の令で菅原道真公が天満天神として祭祀されることになる。
しかしこれは神名混同であり許されるべきことではない。
人霊であるところの菅原道真公が少彦名神の神名を乗っ取った形となっている。
とはいうものの全国の天満天神社に参拝すると少彦名神の神徳を感じる結果となっている。
筆者は菅公の霊の神格を否定するものではないが
せめて菅原神社 天満宮 天神社には必ず少彦名神を併祀していただきたいと願っている。

参考までに奈良市高畑町の 「天神社」の天神社略縁起によると
「もともとは少彦名神の一神を祀る天神社でしたが
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、
道真の霊を祀る天満宮が、各地に奉祭されるにともなって、
ここの神域にも、相殿が建てられて、御霊(ごりょう)信仰の主神であり、
学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。」
と記載されている。


枇杷の種の薬効と少彦名神について

枇杷や梅の種の中にはアミグダリン(レートリル B17)という成分が含まれ
現在では癌の良薬と云われている。
またこの効能としては免疫力を強め鎮痛殺菌作用があるとも云われており
古来より薬として使われていた。
少彦名神は薬神であるが、この種の作用は少彦名神由来と信じられ
枇杷や梅の種を「天神さん」と呼んで大切に扱ってきた。
ところが祟り神の菅原道真公が天神名を乗っ取ると
種の「天神さま」も良薬から毒性の強いシアンが強調され
毒物として敬遠されるようになってしまう。

筆者も幼少のころは梅の種は毒と言われて食べてはいけないものと教えられてきた。
現在では種2〜3個では科学変化で発生する青酸ガスも危険レベルには
ならないことが分かっている。
それどころか、良薬として癌予防に効能が非常に顕著であり
健康食品としても薦められる。

少彦名神の神霊が宿るとされる種の効能が見直されてきたことは喜ばしい限りである。



20060920追記

「八坂神社祭祀と藤原家と菅原道真の真実」

本題に入る前に歴史認識を確認する意味で以下の
流れを把握していただきたい。

もともと八坂神社の地には渡来系の八坂連が信仰する
役天神(薬天神)のお堂があって
ここで藤原基経が京都市中に広まる疫病の平癒祈願したら霊験があった。
それで現在の八坂神社の地に藤原基経の自邸を寄進し
天神堂と観慶寺感神院を建立した。
感神院という名前は基経が神に感応した由来によるもの。
そして最初、奈良の藤原氏氏寺の興福寺の管轄になった。

※ 八坂神社の社伝によると斉明2年 (656)に高麗より来朝した
調進副使の伊利之使主が八坂造の姓を賜ったとのこと。

藤原基経(ふじわらの もとつね)836-891
阿衡事件では菅原道真が事件を収束させている。
子供は時平 忠平(ただひら)他

藤原淑子(ふじわらのしゅくし) 基経の妹。宇多天皇の側近
887年宇多天皇の平癒祈願のため勅命により医薬祖神の少彦名命を奉祀する。
これが哲学の道沿いにある大豊神社である。


藤原時平
871-909 
菅原道真を讒言して大宰府に左遷する(昌泰の変)
この時平が菅原道真の怨念 御霊信仰のきっかけとなる。

藤原忠平880-949
長兄の藤原時平の死後、次兄の仲平を差し置いて、藤氏長者として嫡家を継ぐ。
菅原道真とは親交があった。
朱雀天皇の詔により皇室の守護神として御所の少彦名神 大己貴命を鞍馬に遷宮する。
この神事を取り仕切ったのが忠平で京の鴨川に生えていた葦で松明を造り
道々には篝火を焚き神道具を先頭に行列の長さ10町(1Km)という国家的一大儀式であった。

藤原不比等は奈良の漢國神社で韓神として少彦名神 大己貴命を祭祀しているが
由緒書きによれば、清和天皇の貞観元年正月二十七日に
平安京宮内省にこの二神が祭祀されるようになったとのこと。
藤原氏はもともと中臣姓であるが「大鏡」によると
中臣鎌子連は常陸国(茨城)の人であったとの記載がある。
奈良には常陸神社(ひだちじんじゃ)という神社があるが
ここの勧請の紀によれば常陸大禄(ダイジョ)中臣無良自という人が
少彦名神を祭祀していて794年に平安京遷都の際にこの佐保岡の地に移したとある。
たぶん常陸大禄(ダイジョ)中臣無良自とは中臣連のことであり
大禄といえば正七位上の位のことであろうか?
鎌足時代とすれば中臣大嶋あたりではなかろうかと思われる。
だとすると藤原(中臣)の本当の氏神はもともとは少彦名神だったのかもしれない。
藤原不比等は自分たちの出自他 過去の大王の出自も消し去り
万世一系の系統に造り変えてしまっている。
今に伝わる話としては藤原氏(中臣氏)の祖は天兒屋根命といわれる。

藤原基経が今の八坂神社で役天神に祈ったというのは
役天神=薬天神=少彦名神と考察している。
基経の妹も息子も少彦名神を祭祀している事実もある。

ところが上記別項でも述べたが少彦名神祭祀の天神社は
祭神が菅公となってゆく。
しかしながら八坂神社は天満宮とはならずに
なぜか仏教の牛頭天王が祭られるようになる。
藤原基経が自宅を寄進して観慶寺感神院を建てたので
この行為を須達長者が釈迦のために造った祇園精舎に因んで祇園寺とよび、
天神堂は祇園社と呼ばれるようになったとのことである。
ここに祇園社と呼ばれるようになって祇園精舎の守護神である牛頭天王が
祭祀されるようになったのであろうかと思われる。
そして牛頭天王から素戔鳴尊が連想されたというわけである。
天神の神名が消えるのは早く935年の太政官符では天神社の祭神は
天神(牛頭天王のこと) 妻の婆利女と子供の八王子となっている。

また余談ではあるが藤原基経は880年ごろに五穀豊穣を祈願するために
今の北野天満宮のあるところに火之御子社「火雷神」を祭祀している。
こちらの方は母屋が天満宮となってしまっている。


河内国魂神社についての考察 20070505記載
兵庫県神戸市灘区国玉通3丁目6-5に河内国魂神社はある。
ここの祭神は現在は少彦名神、大己貴命、菅原道真となっているが
もともとは國魂神(倭大国魂大神)を祀っていたと思われる。
この神社の創建は古く延喜式に載る古社である。
またこの河内国魂神社は五毛天神とも云われているが
この五毛天神は後世には菅原道真公のことといわれるようになった。
この五毛の意味は調査中だがもともと河内国魂神社と五毛天神社は
別のものであると感じている。
地名では五毛通り 薬師通りが直交しているが薬師通りは少彦名神由来ではなかろうか?
たぶん五毛天神社には少彦名神 大國主命が祭祀され
国魂神社には倭大国魂大神が祀られていたものを
倭大国魂大神が大國主命の荒魂と云われるようになって混同されたものと感じている。
それで一つの社に合祀されたのではなかろうか。
大國主命は和魂が大物主神 荒魂が倭大国魂大神といわれるが
筆者はこの三神は別の神霊であると判断している。
奈良の大和神社にそもそも祭祀されたという倭大国魂神は國魂神のことで
三輪に縄文から居ます磐座に宿る祖霊である。
大物主神は大いなる物部の神で征服者である物部氏が持ち込んでいる。
天照大神はやはり物部氏が持ち込み天皇家の守り神にした神だといえる。
そういう意味で物部の祖神の饒速日尊を太陽神の天照大御神と代えて天皇の祖神として祭り
さらにのちに藤原不比等が天照女神としている。
ただ大物主神が祀られる前に一時期、道主貴といわれる宗像三女神が祀られた可能性を感じていて
この神が女神であったことから男神である天照大御神を不比等は女神であるとしたのかもしれない。
それは持統女性天皇を神聖化するための作為と思われる。
ともかく最終的に磐座神が祭られた三輪は大物主神に乗っ取られたと言っていい。
三輪に太陽神を祭祀したら大物主神が崇神天皇の御世に祟ったのである。

さて大國主命については天皇家及び物部より以前に国をまとめあげた一族もしくは部族の長で
それぞれの信仰する神の集合体であると考える。
その勢力範囲の中心は九州とも島根の出雲とも丹波の出雲とも想定される。
大國主命の中核をなす大己貴神は蛇であり水の神であり
やはり物部の蛇神である大物主神と同一視されるようになっていく。
これは信仰心がないと分からないことであるが神道では万物に対する自然汎神信仰をベースに
多神教的人格神として祖霊 氏神 産土神を祭祀するが、
例えば大己貴神も大物主神も祭祀する部族も成立過程も違えども
神霊感応力のあるシャーマンから見ると蛇を本体とし水を司る神霊であり、同一神霊と写ることがある。
そしてこの二神の人格神を同じ神霊として祀ることが部族間の和をもたらしている。
このおおらかさが大和心であり自然汎神信仰をベースにする古神道の特筆すべき特徴である。










       

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